善は自己を中心としたものではない。人のために自己を犠牲にすることである。悪は自己を中心としたものであり、自己のために人を犠牲にすることである。
善は大げさに(大きく)始めることではなく、知らせて表れるものでもない。しかし、悪は大きく始めて宣伝して表れるものであり、だんだん小さくなっていくのである。
善は条件なくして与えることである。
善を行ったことを後悔せず、積んでおいた善を売り飛ばさないように。
真なる善と幸福は、家庭よりも、国家、世界、天地間の創造主の心の中におかねばならない。
人間の欲望の究極は、神を知って、神の善と幸福と愛を所有し、神を所有することである。
善なる人は食べ物に対しても、まず天、次に地、その次に人類を考えてから食べる。
常に善なる心と哀れみの心をもちなさい。
善はアルファとオメガが同じである。ゆえに人も、始めと終わりが同じ人が最後の勝利者であり、善人である。
善を行ってそれを忘れれば、その善は善の主体である神の記憶に移される。
悪を分別することのできる指針として与えてくださったのが良心である。
個人を犠牲にして家庭が善くなることができればそうするのが善であり、家庭を犠牲にしてこの世が善くなることができればそうするのが善である。
愛と善は全体のものである。天地創造は神がもっておられる最高の善と幸福を分け与えるためである。ゆえに、愛が多いところ、善なるところ、幸福なるところに人は引っ張られていく。
善なることをなすとき、環境のために失敗しても、それは失敗とならない。必ずほかの面において成就されるようになる。
事実がそうでないのに事実のように現れるのが悪である。私的に動く者、世界を自分の思いどおりにしようとする者は必ず滅びる。
善は、自分より家庭をより愛すること、家庭より国家をより愛すること、国家よりも世界人類をより愛することである。
悪が善を打って残る悪はなく、善が打たれて滅びる善はない。そのため、善なる立場で悪に早急に数多く打たれて損害賠償を請求しなさい。そうして復帰路程において忠臣となりなさい。
善はもっているものを万民に分け与えたい心情である。善を行って全体の心に合わせることのできる和動性があれば全体の中心となることができる。
善はより大きいものを大切にすることである。統一教会全体を犠牲にしても、この民族と国家のためになればそれは善である。国家を犠牲にしても世界のためになれば、世界が栄えるとき、その国は中心国家となり、ある民族を犠牲にして国家を生かせば、その民族はその国家の主動民族となるだろう。
善なる人にも、悪なる人にも、全部に友達となってあげなさい。しかし悪人と和することなく彼らを善に向けるコンパスの中心とならなければならない。
何が善であるか悪であるかに対しては、神様も教えてくださらない。時には、神が、それは正であると教えてくださったとしても、ある時はそれが否であると教えてくださるときがある。ゆえに、それは自分で見分けをつけなければならない。
「怨讐を愛せよ」という言葉は怨讐の中にある罪まで、あるいは悪まで許せということではない。悪に取り付かれているその人をかわいそうに思えということである。
エデンの園のサタンは自己の罪悪性を明らかにしたが、終わりの日のサタンは自己の罪悪性を明らかにしない。
私たちをつくられた神様を父と呼ばなければならないのに、反対に、サタンを父と呼ぶようになったのが堕落である。
慈悲は、完全な善が積もって、より高い次元の世界に向かって進むようになるとき、設定されるものである。
善に対する管理と褒賞を与えるものは神しかいない。社会法においては悪なる者を罰するが褒賞を与えるという法はない。
悪は制裁を受けるが、善は制裁を受けない。
生きるということは、悪の要素を除いて善の要素の本質へ接ぎ木することである。
我々は善のための代弁者となって、悪に対しては審判者にならなければならない歴史的岐路に立っている。
善は利用されない。一時的には利用されるように見えるが、結局、利用した者が滅びる。
流れゆく波も情で抱いてあげる心があるとき、その心の基が善である。
み旨の道を行きたい心が以前より何百倍も強くなってこそ初めて、善へと一歩発展することができる。
天理と法度を破綻させるのが悪である。個人としての食口は神を代表した教会を先立たせなければならない。
いくら下がろうとしても下がることができないのが善である。
善は、動かない場にあっては決定されない。それゆえ、善は万民のための、すなわち第三者のための立場において動く時、決定される。
率直に語り、真実に行動するとき、善は決定される。
善と悪は未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。
悪が一人で滅びようとしないのは、堕落の経路がアダムを引っ張って堕落させた動機となっているからである。
善が、悪の発動するときに静かにしているのは、善が悪と共に行動することができないために、悪が過ぎたあとに現れるからである。
私が、見ることも話すことも、すべてを相対(対象)のためにするときは善である。