み 旨
一 み 旨
み旨は、私がいる前からあった。神がみ旨の始まりであり、み旨の内容であり、み旨の目的である。
み旨は我々のすべての幸福の要素であり、我々の誇りであり、我々の権威であり、我々の知識ともなる。
人は生まれてそのまま死んでいけるけれども、み旨は、そのままで消え去ることはできない。必ず実を結び、結末をつけなければならない。
先生はみ旨に対しては、一歩も譲らない。み旨一つをなすためには、いかなる犠牲があってもそこには避ける道がない。
我々は、行くべき道を残しておいて、今日に満足する者とならずに、この世の未練を断ち切ることのできる、より大きいみ旨をもって新しい歴史を開拓していこう。
たとえ体は、現実の中に生きているとしても、生活感情と理想とすべての因縁は、カナンの理想郷を慕いつつその世界に住まなければならない。
我々は最低の基準で苦痛を受けながらも、サタン世界の最高の栄光を嘲笑し、踏み越えていける心情基準と ならねばならない。
天国に行ける人は、この世の最高の栄光の位置を与えられても、み旨を捨てることはできない、という一片丹心の心情を所有した者である。
先生も身もだえしながらこの道を行く。いわんやあなた方が精誠を尽くさずにおれようか。
復帰は安定した立場においては考えられない。打たれて、また打たれながらも耐え忍ぶ立場において残らなければ、蕩減条件が立てられないのである。
地獄の底を貫きなさい。
打つことによっては征服することはできない。打って復帰するならば、また打たれなければならない。打たれながら復帰していくことによってのみ、結局は負けて勝つことになる。これが最後の作戦法となる。
「何を食べようか、着ようか、飲もうかについて心配するな」というイエス様のみ言を顧みる時が今である。神の国とその義よりも、自分の生活をより心配すれば滅びる。その国がなければ、個人、家庭、社会、民族、すべてが蹂躙を受ける。国のない故郷があるはずがない。
神の苦しみ(心配)を避けて自己の安楽を求める者はみ旨の世界には必要ない。
必要のない数千人よりも、必要な一人がもっと大切である。
我々はきのうまで全宗教が行ったことのない未開の道を行くのである。
モーセを中心として十二支派、七十長老がいて六十万大衆を動かしたごとく、復帰は組織の緻密性を無視することはできない。
天の摂理的な「プログラム」は、根源と上から合わせてくるのである。それゆえに知らない道を行く我々は、命令する方向に従って従順になるのが近道である。
完全なる主体(+)が生ずれば、完全なる対象(−)が生ずる。しかし対象が生ずる前にまた異なったほかの主体があれば破壊される。
モーセはイスラエル民族の半分を失ったとしても、むち打ってカナンに入らなければならなかった。打つべきものを打たなかったがゆえに、モーセも、イスラエル民族も、摂理の時機もみんな失ってしまったのである。
神は一時と一人の方と一つの仕事のために六千年間み業をなしてこられた。ゆえに、この一人の方がなさる仕事と一時を裏切る者は六千年を裏切る者であり、反対に忠誠でもって迎える者は六千年の不変の忠臣として認定される。忠臣は六千年の恵沢を一身に浴びるであろうし、裏切り者は累積された罰を一身に受けるのである。
あなたの口でいったん悪いと言っていながら、ある日突然変わって、良いと言う日には、完全屈服してしまうであろう。
み旨を知った食口たちが落ち着きはらっているのを見るとき、先生はかえって異常な感じを受けるほどである。先生は神と一体化し、サタンと三十億人類を相手として綱引きをする深刻な感じでみ旨の生活をしている。
堕落人間の願いは、@神側に戻っていくこと、A天地を自分のものとして取り返すこと、B敵サタンに対して恨みを晴らすこと。
モーセはみ言の十字架、イエス様は肉体の十字架、再臨主は心情(愛)の十字架。
先生は皆さんよりも一段階前に立って仕事をやっていくので、先生のやることに関心をもちなさい。それは皆さんの次の生活の目標であるからである。蕩減復帰の道は他人の援助なく一人で行くのが原則である。後援を受けるなら、その人の生命までも責任をもたねばならない。
皆さんは難事にぶつかれば百遍も変わることができるが、先生は決して変わることができない。たとえ先生の行く道に死が待ち構えていたとしても、行かなければならない運命である。その理由は、もし行かなくて受ける天宙的に潜んでいる苦痛のほうが、死を乗り越えていく苦痛よりも、もっと大きいことをあまりにもよく知っているからである。
同じ立場においては、神は有能な者を選んで用いる。その理由は、サタンと戦って勝利しなければならないみ旨があるからである。
神が自ら僕の立場で涙を流し、神が自ら子女の立場で涙を流し、神が自ら父母の立場で涙を流しておられる事情を知って、その恨みを解くために至誠を尽くしなさい。
み旨の前で躊躇するとサタンが侵入する。み旨を知って躊躇する者となってはいけない。
神は天理原則しか知らないし、先生はみ旨しか知らない人である。
古い衣を脱がずして新しい衣を着ることができないように、古い観念で新しい世界を見つめることはできない。
深く植えれば植えるほど遅く芽生えるものである。あまり時を急ぐな。六千年間植えておいた復帰歴史が一日にしてなされようか。
統一の理念は千万人をアベルとして対してあげるときに成就される。
神のみ旨のために苦労をしながら死ぬ時には、生きている間になせなかったみ旨を後孫を通して果たしてください、という祈りをもって死んでいくことによって、初めて再臨して協助することができる。
カナン福地は民族的福地でなく、私の福地であるという信念をもって行かなければならない。モーセが死んでも、族長が死んでも、私は行くという信念をもって行かねばならない。
み旨の道は神を背負って、果てしなく遠い目的地に向かって、首まで漬かる水の中を渡っていくのと同じである。ここで私が溺れれば神のみ旨は覆ってしまう。考えてごらんなさい。
「我が思いではなく父のみ意のままになさしめてください」という祈りのごとく、私の思いと父のみ旨とが異なることはあり得ない。
神を呼んで三度あっと驚くことのできることを提示すれば、神はどうすることもできず、必ず自分の神となる。
神と私は好き嫌いが同じである。ゆえに人に良くすること、それがすなわち神に良くすることである。それが善である。
今まで悪の歴史と悪の世界であったがゆえに、善が追われて、屈辱を受ける歴史であった。これが聖人、預言者の歩んだ道ではなかったか。我々もみ旨のために追われ、幾度も屈辱を受け、涙を流さなければ、霊界に行って彼らの前に恥ずかしくない堂々たる者となることはできない。
旧約の時代は望みを見つめつつ実践してきた時代であり、新約時代は信仰を実践してきた時代である。今後、成約時代は愛を求めて実践していく時である。
歴史と世界が、それなくしては滅びてしまうほど貴重なものがあるとしたら、それをどこにおくだろうか。
それを自分の心の一番中心におきたいと願うのが人間の常であろう。心の奧底におこうとすれば、それは見えてはならない。神が無形なるものとしていまし給うのは、正にそのためである。神が見えないということは幸いであって、もし神が見えたとしたら人間による争奪戦を何でもって防ごうか。神もこの苦痛を耐え難かろう。
我々の動機が神であり、過程も神と共に歩み、同一なる目的に向かっていったために発展したのであり、そうでないときには発展していかなかった。
神は与えて喜ばれるために人間を創造なさった。与える場合は、あなたと私とは一心(同体)だという立場で与えようとなさる。
自分を中心として蒔き、自分を中心として実を結ぼうとするな。動機と結果を神に帰しなさい。
幸福は与えてもまた与えたいし、大事にしてもまた大事にしたいし、愛してもなお愛したい人を探すことである。
イエス様は個人的な勝利の条件はもったとしても、国家的に公認を受ける環境をもたなかったがゆえに十字架にかかられたのである。
七年路程は、堕落した人間たちを救い出す道を連結しながら、外的に長成期完成級以上にサタンが侵すことのできない基準を築いたのであり、内的にはエバ(お母様)が完全に復帰され得る基準を整えたのである。
ゆえにこの期間には、エバがアダムに絶対服従する基準を立てなければならないし、先生の家庭がサタンの侵入し得る条件を完全に除去して勝利の基準を立てなければならない。
旧約時代は新婦格の時代であり、新約時代は新婦の時代であり、成約時代は妻の時代である。妻の時代は主様と一体理想をなす時なので、祈りも自分の名前でやる時が来る。
我々のみ旨が事実なのか。事実だとしたら、今自分が生きていく状態がみ旨に合うかどうかを反省しなければならない。
大きくなればなるほど、自分の足もとを見なければならないし、小さければ小さいほど神を見上げなければならない。
先生はみ言を見いだすための十字架、実体を探すための十字架を背負って歴史の峠を越えてきた。
皆さんは統一教会の行く道において、本質を求め原型に近づくように努力しなさい。
人間には情的分野(愛―家庭)と使命分野(仕事)とがある。この二つがないときには、彼は存在世界で死んだ人である。
真なる因縁は途中で変わるものではない。
混血民族を収拾することのできる民族は、世界を支配することができる。
「絶対に天を裏切ってはならない!」、これが統一精神である。
体は心に侍り、心は天倫に侍り、天倫は神に侍って進まなければならない。
神の最高の目的は人間である。
本部はゴルゴタの最高の山頂である。
すべての思考は神を通してしなさい。
神は精誠を尽くさないところにおいては働かれない。
最後の涙の場で会いましょう。
今や世界が反対しても滅びない。
真理と生命と愛は三者一体の関係にある。真理があるところには、愛と生命が伴わなければならないし、愛があるところには、真理と生命が伴わなければならない。
怨讐である自分自らを打ち、生きて果たせなければ死んででも成そうという心情をもたねばならない。
目は天地を見つめ、生活はみ旨と一致したものでなければならない。
もしみ旨を果たせないときには、怨讐に死体も見せたくはない。「共に死のう」という心情で行こう。勝利した道での死体ならいざしらず、敗北した道での死体は見ることができない。
み旨が滅びると言った場合には、いかなることをも受ける覚悟をしている。先生のために心配せず、各自の責任を果たそう。
原理を探すのは茫々たる海の中で砂粒を拾うのと同じである。
み旨を遅延させたのは、その責任が、神にも、国家にもあるのではなく、我々にある。
昼夜み旨を慕っていなければならない。それが消えればおしまいである。ゆえに、常に衝撃の中で生きなければならない。
原理を知ることが目的ではなく、それを通して神を知り、中心たるお方を知るのが目的である。
み旨のためにあなたは今、何をしているのか。先生も常に自問自答する。
神の心情を紹介して導くことのできる宗教が、神の宗教である。
み旨は世界のためのものであり、後代のためのものである。
死んでも倒れても、正道においてのみ死ねば、天地の運勢がその中にあるので、天地を征服することができる。
み旨の目的を達成するということは、すなわち天地万物と人類の個体の目的も達成することになる。
天地の軌道は私が眠っていても回っている。誰も見ていないからといって自分勝手にやれば滅びる。
「み旨」を抱いた人は、み旨がなされる時までは、「心配」から離れることはない。
我々は、神と神の目的と私の目的との三点において、直線を維持することができなければならない。
み旨のために働く態度を絶えずもって進もう。そうしたら、その環境の中でみ旨を知る日が来るだろう。
み旨と共に時も流れていく。この場で、皆さんは永遠を身代わりし得る一個体として立ち得るか。前進しなければ決定した基準を失ってしまう。
個人の使命が、自分で終わってはならない。神の全体目的と一致しなければならない。
神がアダム、エバを創造されたことは、アダム、エバの子女に目的があった。メシヤを立てたのも、メシヤ自体に目的があるのではなく人類に目的があるのである。
神を代表した宗教と世界を代表した思想を正しめようするのが統一教会の仕事である。宗教は縦的であり、思想は横的である。
父子の関係こそが宇宙の根本的な立場である。
主流は短くまっすぐなのである。また近道である。それは、直線で行ける道だからである。
思いもしないところに因縁が結ばれるということはあり得ない。
堕落すれば、人間が悲しむ前に、神が悲惨なのである。
神の摂理には練習というものがない。ゆえに、最高の深刻さをもたねばならない。
我々の人生は、過ぎた道を再び立ち戻ることができないのである。
統一思想は、歴史の願望を通じるものでなければならない。歴史的な聖賢、君子たちもすべてが、これであると言えるものでなければならない。
み旨のために傷つけば、それは後日まで自分にとって教育となり、後孫にも立派な教育となる。
神と一つになりみ旨と一つになってこそ、第二の主体となる。
み旨以外には、信じるものがない。