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@ 我々の責任
復帰の道を行く皆さんは、個々人ですが、皆さん個人だけが行く道でないということを知るべきです。いつも復帰の道を行く皆さんは、真の父母に代わって行く自分であるということを肝に銘じなければなりません。そうでなくては、氏族的、民族的、あるいは国家的な真の父母の勝利の基盤を備えることができないのです。
皆さんが正しく真の父母に代わって行くためには、真の父母は世界的な霊的勝利の基準を立てるために行くならば、皆さんは国家的勝利の基準を立てるために行かなければならないということをはっきり知るべきです。霊的には真の父母の勝利の基準が立てられたので、地上に真の父母の勝利の基準を立てるべきですが、皆さんが民族的な基準を越えるべき真の父母の責任を代行しているのです。
これを他の面で説明すれば、皆さんが民族的な基準を越えて、世界的な基準に向かって行くなら、来られる真の父母は霊的に天宙的な勝利の基準を立てなければならないのです。真の父母の因縁を持って来られる主は、我々が背負っていくべき十字架を霊的に開拓し、実体的に勝利され、すべてに責任を持っていかなければいけないのです。これが父母復帰の難しさであることを、皆さんは知るべきです。
では、今日、天と地と人間を振り返るようになるとき、天がある一時、勝利の真の父母に侍ったか? まだ侍られませんでした。地が侍ったか? まだ侍れませんでした。人間が侍ったか? まだ侍れませんでした。その途上にいるのです。
では、真の父母だけ侍ればいいのか? そうではありません。真の父母に侍った次には、真なる家庭、氏族、民族、国家、世界を復帰しなければなりません。これのために準備したのがイスラエル民族でした。
真の父母の前に真の子女として立つためには、子女の個人的な復帰路程があるのあり、子女の家庭的な復帰路程があるのであり、子女の氏族的な復帰路程があるのであり、子女の民族的な復帰路程があるのであり、子女の国家的な復帰路程があるのです。父母の個人、家庭、氏族、民族、国家的な復帰路程と、子女の個人、家庭、氏族、民族、国家的な復帰路程を完結し、父母と子女が一体となり、勝利したという基準を立てておいてこそ、初めて民族復帰を終結して、世界的な舞台に向かって新しく出発することができるのです。
では、今日統一教会の使命は何であり、統一教会に入教した皆さんは、どんな立場にいるか? 先生を中心としたこの統一教会に呼ばれてきた皆さんは、悲痛な六千年の縦的歴史を横的に、実体的に展開しなければならない立場にいるのです。
我々は、今、何の決心をすべきか? 我々が行くべき目標はどこか? 世界的な基盤の上に真の父母の国を立てなければならないのです。世界的な真の父母の国を立てなければならないのです。この世界に未だ悲しみと苦痛と涙が残っているのに、これらを我々が一日も早く清算しなければなりません。これが今日統一教会が担っている責任であり、使命であるということを、我々は知るべきです。
それゆえ、皆さんは、今行くべき道に立ち上がったので、イスラエル民族がカナンに向かって行ったときと同様に、後ろを振り返ってはいけないのです。心でもそうすべきであり、体でもそうすべきなのです。
今我々が抱くべき希望が何か? 天に代わってこの地に来られる真の御父母様に、本当に侍ることを希望しなければなりません。侍るには勝利の基盤がなされた後に、万民が仰ぎ見、万民が恭敬するようになった位置で侍るのを願ってはいけないのです。悲しい歴史を経られる真の父母に侍るのを願わなければならないのです。
悲しい歴史を経てきた真の父母に侍れないことを、先祖たちは恨として考えているのです。真の父母に本当に侍ることを、すべての人類が希望するのです。それゆえ、栄光の場で侍ろうとするより、悲惨な場で侍る真の孝子、真の孝女にならなければなりません。
そのような真の孝子、真の孝女になるためには、難しい場、失望しうる場、悲惨で悲鳴を上げうる場に立っても「天よ、私を導かれる天よ、真の御父母様はイエス様よりももっと苦難の十字架の道を行かれるので、父母に侍る私としてはどのように加重された十字架を背負うようになっても当然です。私はそれを讃えますので、天は私によって心配しないでください」と言うことができなければなりません。自分に及ぼされる心配と苦痛と悲しみを天の前に背負わせないで、自ら蕩減していく術を知る人にならなければならないのです。それでこそ、個人的な基準で個人的な父母の勝利の因縁を接ぎ木することができるのです。
現在我々統一教会は、祝福家庭たちが韓国の至る所に広がっています。なぜ祝福家庭たちを韓国の至る所に広げておいたか? 天は韓国民族と韓半島を中心として摂理され、真の父母はこの韓国民族、韓半島のに来られるのです。そして、来られる真の御父母様を、韓半島が、すべての村々が、谷から谷が、山野はもちろんであり、全部が侍りたがるのです。それは、真の父母に侍ることが歴史的な願いであるためです。
それゆえ、子女の立場で個人的な蕩減基準を立て、家庭的な蕩減基準を立て、真の父母の身代わりとして、その村と部落が、後悔なく侍りたがることのできる、真の父母の実体の身代わりが行かなければならないのです。来られる真の父母は、もちろん中心の位置におられ、霊的に全部と関係を結ばれますが、実体は一つであるので、全体に対することができないのです。それで真の父母の実体に代わって、万民に対する立場に立てられたのが祝福家庭たちであるのです。
真の父母には、この民族を越えて世界的な十字架を背負って行くべき責任があります。それゆえ、民族的な十字架は地方に広がっている、真の子女の立場にある祝福家庭たちが背負って行かなければならないのです。祝福家庭全体が一つの氏族的な基盤、民族的な基盤になってこそ、天の役事はこの民族を中心として勝利の峠を越えることができるのです。(一三\二八八)
父母様を愛して、本然の愛の基準を中心として、サタンを分別して責任分担、世界完成基準を越えなければなりません。(一三七\一一七)