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C 父母と食口

今日我々統一教会では、信徒たちを食口と言います。今日までの歴史途上で、この食口という名詞を悟らせてくれた者がいませんでした。食口という言葉は、家庭を離れては成立しません。食口が生まれるためには、必ず家庭がなければならず、その家庭があるためには、兄妹がいなければならず、兄妹がいるためには、父母がいなければなりません。そうでしょう?(はい)。

キリスト教でも、信徒や信者という名詞を使いますが、食口という名詞は使えませんでした。今日、この世界が外的な面で、世界大家族主義を叫んでいますが、大家族を成すためには、その大家族の父になることができ、母になることができる父母がいなければなりません。その父母として来られる方が、まさにメシアです。お分かりですか?(はい)。

ところで、今日統一教会で言う食口の中に、真の食口がおり、それとは反対になる食口がいます。また、中間の立場にいる食口もいます。では、神様が立てられた天的な家庭を中心として、食口という名詞を持った真の食口はどんな人なのか? これが問題です。

食口になるためには、まず父母を持たなければなりません。兄弟になるためにも、父母がいなければなりません。兄弟は何人かいますが、父母は一人なのが原則です。すなわち、食口は何人でも、主人は一人だというのです。そうでしょう?

では、その父母や主人は、誰を中心とした父母であり、主人か? 自分を中心とした主人ではなく、自分を中心とした父母ではありません。兄弟を中心とした父母であり、食口を中心とした主人なのです。また、悪なる世界で悪と接することができる主人であり、悪と接することができる父母であるか? 悪とは関係ない主人であり、父母でなければならないのです。

真なる善としておられる父母であり、主人であるというからには、その父母は家庭や、あるいは韓国の民なら韓国の民を主とした父母であり、主人であるのか? 違います。全世界の三〇億の人類全体の父母であり、一つの大家族を主にした中心でなければなりません。

では、その主人であり、父母であり、中心の位置には、誰が立つべきか? 天地を創造した神様が立つべきです。その次には、誰が立つべきか? 悪なる世の中を世界的に収拾する、神様の身代わり、すなわち、救世主が立つべきです。そうして、神様と一体となった救世主を父母として、地上に迎えることができてこそ、初めて真なる家庭を成すことができ、救世主に真に侍る者だけが、真の子女と真の兄弟になることができます。(一五\二九五)

皆さんは、神様のみ旨の道だけを歩むべきであり、兄弟でない兄弟にならなければならず、父母でない父母にならなければなりません。統一教会で父母でない父母に侍り、兄弟でない兄弟が神様を中心として血肉の情を越えることができる、このような運動が起こるのです。

ここで民族を超越し、世界を超越し、新文化創造が起こるのです。何を中心として? 神様の何を中心として? 神様の生命力を中心として? 神様の創造の能力を中心として? 神様の知恵を中心として? 知識を中心として? 違います。神様の愛を中心としてこそ可能なのです。(八三\一七七)