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二 氏族的メシヤとしての決心

   

1 氏族的メシヤは覚悟が必要

 故郷にどのように訪ねていくのか今まで知らなかったのです。皆さんに、氏族的メシヤになれとはどういうことでしょうか? 真の父母になれということです。ですから、ここにいる人たちは、統一教会の文先生が死ぬほど苦労させるとしても、「感謝いたします」と言わなければなりません。死ぬほど苦労するならば、何百倍、何千倍の天の福があるということを知り、それを甘受していく環境をつくるならば、祖国が自動的に成されるのです。

 ですから、歴史時代のいかなる孝子、忠臣、いかなる歴史的な聖人よりも自分のほうが素晴らしくなければなりません。私がもっと素晴らしくなければなりません。この伝統を受け継がなければなりません。レバレンド・ムーンが皆さんを世界的な犠牲の位置に送り出す代わりに、世界にない愛でもって愛してあげ、福を与えるのです。この伝統をはっきりと知らなければなりません。

 その偉大なる聖賢より素晴らしい皆さん自体の価値は、千万金を与えても換えることができない価値です。にもかかわらず、これをたちまちのうちに捨てる愚かな者になってはいけません。個人の感情のゆえに、私個人が困難だと、これを捨てることができますか? (できません)。故郷が行ったり来たり、祖国が行ったり来たりするのです。(一九七九・一・一四、ベルベディア修練所)

 自分の氏族に責任をもつのです。自分の氏族を救わなければならないのですね。氏族的メシヤと同じ責任を背負って行けというのです。死を覚悟して行けというのです。

 さあ、先生が今までこの道に出で立って、韓国全体が反対し、キリスト教全体が反対し、世界全体が反対するのを押して出てきて、開拓するのがどれほど大変だったでしょうか? そのようなことを考えるとき、皆さんは、反対されず、歓迎される環境と与件においてするので、自分の氏族を救えなければならないのです。

 皆さん、今までの集まりが常習的なものと思ってはいけません。歴史的なのです。戻っていくのです。戻っていきなさいというのです。違うのです。時代が変わるというのです。

 そして、皆さんが外地に出ていき修練し、み旨を中心として熱心に活動してきた新しい習慣性をもち、その町内全体を変革しなければなりません。従っていってはいけません。神様が何もない中から自分の全体を投入して愛の対象圏をつくってきたのと同じく、皆さん自体を投入しなければなりません。必ず一つに一致させなければなりません。故郷の人たちの中で、皆さんが最高の位置まで行けば、霊界が協助するのです。今に見ていなさい、事実がそうなのか、そうでないのか。そして、ビデオテープをたくさん作って伝道しなさい。(一九八八・六・一五、イースト・ガーデン)

 皆さん、先生が慕わしくて男の目からどれだけ涙を流してみましたか? 問題はこれなのです。皆さんはそのような生活をどれだけしましたか? 先生は今も、一言で痛哭します。二言は必要ありません。天に対して二言は必要ありません。「あなたの心は、この所に向かっていくのですね?」と言えば、「そうだ」と言うのです。天がそうであるので私たちもそうでなければならないというのです。

 さあ、そのような私自身を発見して、私はみ旨の道を行っているという自負心をもって自慢することのできる人を天が願ったという事実を考えるとき、今や皆さんは、故郷へ帰らなければならないのですが、どのような人として帰るのでしょうか? そのような私として帰らなければなりません。(一九八八・六・一、本部教会)

2 代役者になれ

 統一教会の信徒は、誰を愛しますか? 私たちは、神様とイエス様を違うものと見るのではありません。イエス様と神様に侍るなかで父母の因縁を結び、その父母がおられる故郷の地を愛する人になるのです。そのようにすることのできる真に満ちた父母が現れなければ、故郷の地はまだないのです。

 それでは、この世界で真実なる故郷の地はどこにありますか? キリスト教の多くの群れが集まる大教派にありますか? 違います。真に満ちた孝子は、手の先に血が流れる痛さを耐え忍びながらも、父と呼ぶことのできる人です。良い場で自分の安逸をうたい、深い眠りをしようとする人を神様は願われません。

 この時間にも手の先に血を流しながらも、「私の足りなさを許してくださいますように」と言って血の道を意に介さず身もだえし、苦労する位置であってこそ父母が訪れてくることができます。

 それでは、故郷の地を訪ねていって父母に会って何をするのでしょうか? 父母として来られるその方は何をするのでしょうか? その方は、堕落した祖先であるアダム・エバの代役者であり、彼らが失敗して負った傷を彼らの代わりに縫いつくろわれるのです。

 アダムが堕落することによって世界人類がめちゃくちゃになったのです。イエス様は、これを縫いつくろわなければなりません。これは、父母が縫いつくろわなければなりません。

 それを真の父母がしなければならないのですが、その父母が三十億人類をみな縫いつくろわなければならないのでしょうか? 違います。御父母様に孝と忠を果たした孝子、孝女、忠臣、烈女がその名牌をもって出ていき、代役者として縫いつくろわなければならないのです。

 私が韓国に戻ってきつつ感じたことは、「お父様。あなたが愛する韓国が本当に万民の故郷の地になることができますか?」ということでした。この国は、万民の故郷の地になることはもちろんであり、父の故郷の地にならなければなりません。神様が愛するこの国の民は忠孝を尽くす息子、娘として、この地韓国をして世界を救援できる理念と連結する足場をつくるようにしなければならないというのです。

 三〇〇〇万民族が苦しめられ、追われながら、荒廃した山野から吹いてくる冷たい風を受けるのもすてきなことですが、そこに恐ろしい猛獣まで飛びかかる境地にある韓国を、神様の故郷の地としてつくり、万人の祖国としてつくらなければならないことを考えてみなければなりません。

 私たちが国のために戦うだけでは神様の国の責任者になることはできません。その国は、世界が行く道に責任を負うことができるし、神様の心を慰め、世界のために神様が行かれるいばらの道を平坦な道にならすことのできる、民族的責任を負った国でなければならないというのです。

 私たちには、行かなければならない所があります。そこは、故郷です。故郷に行って父母に会わなければなりません。そうして、父母の法度に従っていかなければなりません。父母がしなければならない責任を私が身代わりし、その心情の因縁を連結させて死亡圏に入っている万民たちを生命の道へ引導して、一つの氏族、民族、国家型をなして泰平天国をつくらなければなりません。

 この国は泰平天国になりましたか? 韓国を主となし、万民と万国を万世に幸福にしましたか? そうできなかったというのです。今から韓国がそのような道を築かなければなりません。

 このように、神様が行かれる道は、救援摂理の道として私たちが必ず行かなければならない道です。私たちは、父母を探し求めてその国をなし、再び世界を探し求めなければなりません。これが天地が必ず行かなければならない所です。

 故郷の地に行って何をするのでしょうか? 父母に会わなければなりません。どれだけ故郷の地だといっても、父母と関連を結ばなければ何もならないというのです。たとえ父母が死んだとしても故郷と関係を結ばなければなりません。そのようにならなければ氏族が現れません。新しい父母、新しい息子、娘が新しい法度を立てた家庭を中心として一体化して氏族を成し、国家を成さなければなりません。(一九六五・一〇・一〇、前本部教会)

3 孝子以上になれ

 皆さんは、故郷に帰って誰よりも孝子にならなければなりません。故郷に孝子がいるならば、歴史時代にその地にいた孝子の中の、そのいかなる孝子よりももっと大王の孝子にならなければなりません。忠臣が出たならばそれよりもっと大忠臣にならければなりません。

 どれだけ孝子、忠臣になったとしても、真の父母と横的な因縁をもたなければ何の意味もありません。真の父母を中心として横的な父が水平になるとき、縦的な父が現れるのです。完全なマイナスが生ずるとき、完全なプラスが訪れてくるのです。(一九八八・五・二一、本部教会)

4 徹して行け

 さあ、皆さんは、どこへ行く人たちですか? 「故郷を訪ねていきます」と言うとき、どこへ行かなければなりませんか? 忠清北道ならば忠清北道の自分の故郷の地を訪ねていかなければなりません。

 皆さんが幼かったとき、山で跳び跳ね、そこで花をつみ、草をむしったりしていたいろいろの事由が残っている所、父母を思い出として慕うことのできる刺激的なすべての要因が残っている、その所に行かなければなりません。そのような所へ行って、その山や川を眺め、「昔、私が遊んでいた野原があるし、登ったり下りたりしていた木がこのように大きくなったのだなあ!」とこのように思いながら、一抱えを越す木をかき抱き、その木に登るとき、母が来て、私が落ちるかと思って心配され、涙を流して忠告していたそのような事由をたっぷり感ずることができなければなりません。

 また、井戸を見ても私が水を汲んで飲もうとした時、愛するお母さんが来て、井戸に落ちるかと心配しながら大騒ぎしていたそのような事由。また、いたずらっ子の姿で池で泳いだこと、田んぼに入ってどうのこうのしていたすべての事由まで、みな考えることができなければなりません。そのようなことを考え、父を思い、母を思い、その昔、兄弟たちを愛したことなどを思いながら母を探してみると、母はいないし、兄弟もおらず、祖先の墓地を訪れて、「お母さん、私、来ましたよ」と言うとき、涙がポロポロ流れるのです。

 故郷をたどり、心情にしみ込んだその心をもって、「お母さん!」と呼ぶとき、涙がひとりでに出てくるのと、何の感ずることもなくさっさと一人で行って、「お母さん、私、来ましたよ」と言うのとどちらが母の心に合うでしょうか? 昔の幼かった時の事情を隅々までよく知って、母を恋しく思い、たっぷりしみ込んだ心をもって墓の前で、「お母さん!」とあいさつするのと、どちらが母にとって望ましい息子だろうかというのです。どのような息子が願わしいですか?

 もし、そのような事由を感じながら母のところに涙ぐんで訪ねてくる息子と、そのような事由もなく大統領をやったとか長官をやったとか、出世の欲望をもって、「お母さんの前に福になることのできる息子として来ました」と言う息子と、どちらの息子がもっと心情圏内に近いだろうかというのです? 二番目ですか、一番目ですか? (一番目です)。

 それと同じく、統一教会の文総裁が故郷を訪ねていく時は、神様と人類の始祖を中心として本然の心の中でそうあり得るし、また、そのようになることを願ってきたのです。真なる神様の愛を中心として因縁づけられたその世界の、真なる人類の父母と共にたっぷり抱かれ得る息子、娘になり、昔、その園で神様と私たちの真なる父母に侍り、真なる神様と真なる御父母様の愛の中にひたり、天下のすべてのものが神様の懐にあるように私の懐にあり、神様が造られたすべての万物が、私たちの美しさと私たちの価値ある愛を褒めたたえるのを見て、感ずるすべての感激にひたり、「お父様、私、訪ねてきました」と言うのです。そのようにするのと、ただそのまま剛直になり、「あのダンベリー監獄から出てきました」と言いながら涙を流すのとどちらがより必要ですか? (一番目です)。合っています。(一九八八・五・一一、清州教会)

5 主人の本分を果たせ

 皆さんも同じです。四十年の間あざ笑ってきた故郷に帰って、主人の本分を果たさなければなりません。新しい祖先の、主人の本分を先生のように果たさなければなりません。

 先生は、その主人の本分を果たすために追い出されましたが、皆さんは、歓迎を受けることのできる時代に、主人の本分を果たすようになっています。親の愛がそれほど天にいっぱい満ちたということを考えなければなりません。(一九八八・一〇・八、一和龍仁工場)

 先生は昔を静かに考えてみると、私が住んでいた部落の土地、山があるならばその山の深い谷間まで、何が生きているのかをみな究めてみてこそすっきりし、沼があるならば、沼に何の虫がおり、何の魚がいるのかをみな暴き出してみてこそ、心安らかだったのです。そのために夜を徹してその業をしたのです。山をさまよい、隅々までひっくり返してみて、どこに何が生きていると心でもって呼ぶときは、それはどこにいるということが思い出されてこそ心安らかなのです。そのような性格なので天地をそのようにくまなく暴いたのです。

 今回、済州道に行ってもそうしました。四方が全部海で取り囲まれているのですが、その中に何がいるのか考えられなければ、どうして生きていけますか。心苦しいのです。海で取り囲まれているのですが、その山に何がいるのか知らずにいると、心苦しかったのです。

 ですから、悪魔がおり、神様がいるのですが、悪魔の鉄甲の中に私が入っていると思うといかばかり心苦しいですか? 神様がその中にいる私を呼んでいるのに、その声が聞こえもしないとは。その業を撃破しなければなりません。痕跡も残さず、なくしてしまわなければなりません。そのような業をしてみると、この原理の道が明らかになり、今日、統一教会がその中から蘇生してきたのです。

 ですから、皆さんは、その村の本当の主人にならなければなりません。虫までも全部愛し、こうしながら故郷を愛さなければなりません。故郷を愛せないのに国を愛しますという人は偽者なのです。根のない幹があり得ますか? あり得ないというのです。

 故郷を愛さなければなりません。そのようにして歓喜に徹して、完成した男性であり、完成した女性として……皆さんは、皆さんの妻を世界と戦って勝利した女王として、韓国のすべての怨讐を平定して勝利した女王として、夫に侍る立派な方として侍ることができます。また妻は、夫をそのような王として侍ることのできる夫婦として出会った間であるということを知らなければなりません。

 この愛を中心として億万世と連結されている一つの構造体、その構成体を成した一つの部分であり、私は国家を代表し、天地を代表し、神様を代表した一つの愛の世界であるというとき、神様は、「ノー」とは言われないというのです。皆さんの故郷でそうであり得る、主人たる権威を誇る人にならなければなりません。

 皆さんの息子、娘がその伝統を受け継ぎ、そのようにならなければならないのです。そのような伝統を受け継ぐことのできる子々孫々を残すようになるとき、この氏族基準を中心とした個人時代、家庭時代へ大きくなっていってもよいというのです。どれだけでも上がっていってもよいのです。

 ですから、故郷を愛の血の涙でぬらして、そこに皆さんが定着することができる起源地につくらなければなりません。祖先になるのです。先祖なのです、元祖。元来の祖先なのです。元来の祖先の心情圏をもたずしては、故郷に神様の道理を広めることができないというのが原理の教えです。(一九八八・六・一、本部教会)

 今や皆さんは、天の国の愛の僕生活をすると思いなさいというのです。天の国を建てる愛の僕生活であり、愛の秘密決死隊員であり、スパイ工作情報員だと思いなさいというのです。そうであるならば、できないことがありますか? 生きるためには、男が女の真似もできるのであり、乞食の業もすることができるのです。国を生かすためには、自分の一族を生かし、自分の国を生かすためには、私はそれ以上することができるという心の姿勢をもち、実際行動をそのようにするときは、部落は黙って自然屈伏するのです。(一九八九・一・三、漢南洞公館)

6 氏族の種になれ

 今日、皆さんは、故郷に帰って種になる存在にならなければなりません。そして、その種が植えられて大韓民国はもちろんのこと、天地が訪ねていくことができる、神様がいつでも訪ねていきたい環境を残すことができなければなりません。そのようにしておいてあの世に行くようになれば、天の国の息子、娘として愛を受けて生きるに違いありません。このような生涯路程を今から定立しなければなりません。

(一九九〇・一・一四、本部教会)

 先生が、「故郷を訪ねていけ」と言えば、故郷を訪ねていくことが種を植えることではありませんか? 新しい種を植えるのです。アダム・エバの種になったので、皆さんを通じて新しい種を植えて、新しい根を差し込もうとするのです。ですから、新しい種を植えるには、肥料をもってきて注がなければならないのです。ですから、悪口を言われに行かなければならないのですね? 善意の悪口を言われ、苦労をたくさんしなければなりません。三年してみなさい。三年も必要ありません。六カ月あれば、みな終わると見るのです。昔、皆さんが一次の伝道に出ていくときも故郷の代わりの地に行って、一二〇軒をつくって、教会をつくりなさいと追い出した時があったでしょう? それ、みな失敗したでしょう? その次にホーム・チャーチをしなさいと言ったのに、それも失敗したでしょう? 今や最後です。最後だというのです。(一九九一・八・二九、国際研修院)

 歴史的なすべての被造世界、人類の男・女、家庭のすべての種として祝福してあげたのです。種だというのです。数多くの家庭が育ってきましたが、天地が必要とし、神様が必要とする家庭ではありませんでした。それは、種ではありません。

 氏族的メシヤとして行けというのは、そこに生まれたものが全部偽物、野生のオリーブなので、汝の氏族に新しい種を植えて、真のオリーブが出るようにし、切って接ぎ木し、真のオリーブの畑をつくりなさいということなのです。その一族においては、それ以上の福音がありません。国を探し求めるよりも、世界を探し求めるよりも、天地を探し求めるよりももっと貴いのです。

 統一教会はそのような貴いものをもっているし、文先生が神様を身代わりしてそれを任命する資格があるので、霊界のすべての死んで行った皆さんの先祖たちは、目を上向きに開けて……数千年数万年間、この時間をどれだけ待ち焦がれたことでしょうか? 皆さんの一生が問題ではありません。先祖の生命力を中心として、標的として生まれたのです。今まで先祖たちは、永遠なあの霊界に行って、彼らのあきあきする生の環境が反転し得る、喜びの一日を待ち焦がれてきたことを考えるとき、今やふたが開かれて旗を掲げ、先祖を動員し、一族を動員して命令することのできる覇権者が来たという事実は、その一族には最高の福だというのです。

 その植える時間は、いつでもあるのではないのです。分かりますか? 植えるのは、誰でも、いつの時でもできるのではありません。種として選ばれたといっても、腐ることもあります。み旨の一念、神様が願い、師が願うその一念から自分の故郷に行って真に満ちた種になって育ち、真のオリーブの木の枝を伸ばして、その枝を切ってあげなければなりません。切ってあげて全部、接ぎ木してあげなければなりません。天使長の死亡の根、悪魔の根をもった一族たちの根本を切ってしまい、真の父母の根、真なるアダムの根、神様の愛と責任分担を完成した理念の中で一体となり、誰も分立させることのできない、絶対的な愛を中心とした根から出てきた枝を接ぎ木しておくことによって、永生の版図が自分の一族圏内に拡張されるという驚くべき事実を知らなければなりません。(一九九〇・一・一四、本部教会)

7 氏族復帰のためには一体一心になれ

 天は、いつも私たちが行く前に、みな準備しているのです。その準備しているものを受け継ぐことのできる業ができないので、いつも失ってしまい、どれだけ天の御苦労に損害を、被害を被らせているのかを知らなければなりません。

 皆さんも統一教会に来る時、反対され、深刻になって出てきた人が多いでしょう? 今回、入っていくとき、いかばかり深刻ですか? その反対していた地域を完全に占領し、のみならず反対されていた師が戦っている祖国のために、私が協助し愛国者にならなければなりません。氏族を建設して愛国者の先鋒者になるという、その道が残っていることを知らなければなりません。氏族を救助できないならば、愛国者になることができません。そのような心をもって帰っていって、熱心に動かなければなりません。

 その過程は簡単です。カイン、アベルが合わさるのです。体と心が一つにならなければなりません。皆さんの父母に、体と心が一つになって対さなければなりません。これが訓示なのです、訓示。統一の秘訣はこれです。体と心が完全に一つになれなかった人が統一を願うのは嘘です。その心がみ旨のための心であり、その体がみ旨のための体なのです。心の生活がみ旨のための生活ですから、体の生活もみ旨のための生活なのです。心と体が和することのできる間なのです。それが分かっていなければなりません。

 父母が一つになって子供まで一つになるとき、家庭を中心として氏族圏を復帰することができるのです。皆さん、祝福家庭が多いので帰る家庭が多いですから、そうであるならば、この家庭は全部、自分を投入しなければなりません。食口全体が氏族復帰のために一心一体にならなければなりません。息子であれ誰であれ全部、そうでなければなりません。こうして、おじいさん、おばあさんが全部、皆さんの家に行って、「お前の家が良いからお前の家で住みます」と訪ねてこなければなりません。そのおじいさん、おばあさんを送り返すならば、涙を流しながら戻っていくという情状が今から現れるのです。父母もそうであり、姉、弟妹たちにもそのようなことが起こるのです。(一九八九・一・三、漢南洞公館)

! 氏族同士連合せよ

 韓国統一というものは、統一教会の文先生を中心として統一教会の信徒たちが完全にプラス・マイナスになって、私が縦的な所にあれば、統一教会の信徒は、横的基準で走ればよいのです。私が国のためにこの基盤を築いたので、皆さんが南北統一のための基盤を築くときは、氏族を連合せよというのです。(一九八九・一・八、本部教会)

 中心氏族を早く復帰した人たちは、今からは、すべての国を一つの国として動かすことのできる責任者として登場するのです。ですから、氏族をかけて行かなければなりません。イスラエル民族がモーセに従っていきながら滅びるようになったのは何ゆえかといえば、氏族同士が一つになれなかったからです。

 世界的に見るならば、十二支派が、十二から三十六へ、三六〇になりました。そこに全部、吸収されなければなりません。それが反対に合わされなければならないのです。(一九八九・四・一、ベルベディア修練所)

9 氏族を中心として競争せよ

 きょう、皆さんが考えなければならないことは何でしょうか? (一人の食口を指しながら)君の姓は何ですか? (モーリスです)。モーリスであるならばモーリス、君はアメリカを代表したのではありません。君の氏族を代表したメシヤです、メシヤ。そのようになるならばアメリカを君に任すというのです。アメリカの国を君に任せて救ってくれというのです。国を救う責任を任すというのです。何の話か分かりますか? (はい)。

 統一教会の信徒たち、今から競争です。氏族を中心として競争です。誰がナンバーワンの氏族をつくるのかというのです。皆さんの先祖たちもそれを知っては、「私たちが勝たなければなりません! どうしてじっとしていますか? 出ていって活動しなさい! 活動しなさい!」と言いながら、互いに競争するというのです。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)

10 氏族的メシヤは自立せよ

 先生が今しなければならないのは、世界の運勢を連結させることです。世界の運勢を連結させるように、今、みな準備できているのです。この南北が平定化され、道を貫いて交流するすべての基盤ができるならば、世界は直ちに一つの世界へと越えていくのです。ですから、今年から早くすればするほど、すべてのことが早まるのです。そこに、もてる精誠を尽くして総進軍しますように! (アーメン!)。

 今からは、私が皆さんの所に訪ねていかずとも、独自的にすることができますね? (はい)。皆さんは、家庭をもった人たちではありませんか? 氏族的メシヤたちなのに、メシヤに誰が手助けしてくれますか? 手助けするならば、本物になれないのです。本物は他にないのです。氏族的メシヤに誰が手助けするのかというのです。メシヤが、国に手助けしなければならないのですね? そうではありませんか? 彼らが国に手助けしなければならないのであって、国が彼らに手助けしてはいけないのです。

 税金を誰が出さなければなりませんか? 国が税金を出さなければなりませんか、皆さんが税金を出さなければなりませんか? (私たちが出さなければなりません)。氏族が出さなければならないのです。

(一九八九・一・三、漢南洞公館)

 氏族的メシヤが来て手助けしてくれと言えば、それでよいですか? 協会長! 言ってみなさい。先生は、手助けしてくれという祈祷を一度もしませんでした。それを手助けするならば、さなぎになります。さなぎが何か分かりますか?

 祈祷する前に何倍、何十倍熱心にしなさいというのです。死ぬくらいに力を尽くしても駄目なら、祈祷しなさいというのです。少ししても伝道ができるし、祈祷しなくてもお金がついてくるのです。そういうものです。(一九九〇・五・二五、漢南洞公館)

11 故郷で四年は走れ

 氏族的メシヤのためには、もてる力を尽くさなければなりません。一つだけでもできた日には、祝福してあげるようになっています。昔は、先生が全部迫害を受けながら発展したのですが、皆さんは今、一族が歓迎するのです。祖先たちが直接後援するようになっています。全部教えるようになっているのです。それは、分かりますね? 統一教会の人たちは、おめでたく見えてもみな、霊界から教えてくれるので残っています。先生が良くて従っていこうとしますか? 先生に従っていくのがどれだけ疲れますか? そうでしょう? しかし、今では疲れません。四年苦労するならば、統一教会の信徒たちは幸運をつかむのです。(一九八九・二・五、本部教会)

 今からは、皆さんは口を閉じていてはいけません。集ってくるならば、先生が一九五〇年代に七年間二時間以上眠らず、皆さんを昼夜教えたのと同じく、夜昼なしに約七年間してみなさい。七年間もしなくてよいです。四年もかかりません。四カ月以内に、みな終わるのです。私が故郷に行くようになれば、たちまちのうちに統一してしまうのです。

 ですから、父母によく教えてあげなければなりません。兄弟たちに真実なる意味ではっきりと教えてあげなければなりません。自分の手で、他人の口を借りず、皆さんの血の汗を通じて教えてあげなければなりません。精誠を込めて教える態度を、その姿勢を父母が手本にし、お兄さん、お姉さん、弟妹たちが手本にし、甥、姪たちが手本にするならば、「私たちの家の宝である私のおじさん。私の弟妹、お姉さん、うちの息子、娘」と、このようになるのです。(一九八九・一・三、漢南洞公館)

12 心情の根を下ろせ

 今までは、事実上、他郷生活でした。今からは、自分の故郷を訪ねていくのです。故郷に行って涙を流し、精誠を尽くさなければなりません。

 イスラエル民族がエジプトに行って四〇〇年間生きたのと同じく、私たちは四十三年間その業をしましたから、故郷に帰って愛の根を下ろさなければなりません。神様を愛し、父母を愛し、兄弟を愛さなければなりません。そして、世界的サタンが讒訴する起源を断ち切ってしまわなければなりません。イスラエル民族はそれができなかったので、カナンの福地の理想天国を形成することができませんでした。ですから、サタン世界に何も願うなというのです。荷物を背負って往来するとしても、私たちが一番なのです。悪口を言われ、夜に町内の犬がほえても、私たちが一番なのです。そのような自負心をもち、父母も堂々と部落の天地を愛の喚声とともに消化する業に同参して、前進しなければならないということをよく記憶し、戦ってくれることを願います。(一九八八・六・一、本部教会)

 それでは、今や皆さんは故郷に行って何をしなければならないのでしょうか? 争えというのではありません。心情の根を打ち込み、芽が出るように努力せよというのです。ところで、その故郷で数千年、数百年の歴史を通じて生きてきた先祖の中には、国のために生きた忠臣もいるし、あるいは烈女、孝子、孝女も多かったはずです。その人たちに負けないように、それ以上にしなければならないのです。それが条件です。その地の上で生きて死んでいった人の中に愛国者がいるならば、そのいかなる愛国者でも霊界に行けば、彼らが黙って皆さんに、「立派でした」と頭を下げるようにしなければならないのです。彼らは地上では、サタン圏内で生きたのです。しかし、今や本然の心情を中心として故郷の地に根を下ろした立場で、神様を中心として出発するその心情的祖先の芽に、善なる天使長の立場に立った私たちに、対抗し得るのかというのです。それで自然に頭を下げるようにする基盤を全体的に形成せよというのです。

 そうするならば霊界が協助するのです。霊界が協助してその一族全部を、近い群れを全部集めて皆さんの前にひきずり込むのです。そうすることによって皆さんを中心として霊界が、神様を中心として霊界の霊たちが降りてきて取り巻くのです。善なる霊たちが取り巻くので、悪なるサタンが侵犯することができない圏内になるというのです。それで、その基準を中心として本然の真なる祖先の位置を心情的因縁で受け継ぎ、新しく植えたのと同じ基盤になったので、その基盤を中心として皆さんの一族が、おじいさん、おばあさん、誰ということなしに頭を下げることができるようになるのです。

 ですから、ために生きなさいというのです。ために活動するのです。一族を復活させることのできる、一族を代表した氏族的メシヤの使命を果たすのです。

 そのようにして皆さんの一族が協助するようになるときは、村が協助するのです。そして統一教会にたくさんの人たちが入ってくるようになるならば、家庭基準から氏族基準に連結されるのです。郡と郡は、自動的に道へ連結されるのです。幾重にも重なり合って連結されるのです。(一九八八・五・一五、本部教会)