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1 長子が貴い理由
皆さん、私たちの原理でカイン・アベルを見るとき、カインが貴いですか、アベルが貴いですか? 誰が貴いですか? (アベルです)。思い違いです。アベルは弟の位置であり、カインは長子の位置です。正しく知らなければなりません。次子よりも長子の位置が貴いのです。長子は一人ですが、次子は多くあり得るのです。長子に何人もなることができますか? 長子というものは、一人しかいないのです。長子がなぜ貴いのかといえば、一人しかいないからです。そうではありませんか? 次子はどれだけでもいることができるのです。それが分からなければなりません。
神様が復帰摂理をしてくるにあたって、長子をサタン側に立ててきたのが恨みです。愛の病気にかかったのです。愛の病気によって、過ってその長子を生んだというのです。ですから、道理にかなった法度の基準を探し求めていって、再び自ら和合することのできる個体の位置に上がってくることのできる時と期間を迎えるために、億万年かかるとしても、これが分からなければ迎えることができないのです。
それでは、アベルを立てた目的とは何でしょうか? アベルの子供たちを生かすためではなくて、長子権を立て、家の中の伝統を正すためであることを知らなければなりません。統一教会の信徒たちは、これを分からないでいるのです。「うーむ、私がアベルだろう●」と言うのですが、この責任者たちは知らなければなりません。「私たちは、アベル的位置にいるから、それでよい」。そうではありません。皆さんを立てたのは、長子圏の一族を設定するためです。自分たちが福を受けようとするならば、長子圏をつくっておき、その長子が福を分けてくれるならば、もらって食べるのです。ところが、長子圏はほったらかしにして……。その長子権は、自分ではないのです。来られる主を中心として、縦的な天上世界と因縁を結ばなければなりません。横的世界だけをもってしてはできないのです。原理で解釈しなければなりませんが、皆さんはみな知っていると思うので、このように話をするのです。統一教会の文先生がこの道を知ったので、「ために生きよ」という、決定的な論理を立てざるを得なかったというのです。生まれたのも、ために生まれたのです。男が生まれたのも女のために生まれたということを知らなければなりません。「私」というものがありません。 (一九八五・一二・二二、本部教会)
2 長子権復帰の基準
イエス様を後のアダムと言ったでしょう? 今日、統一教会ではみな、先生を父母と言いますが、第三のアダムをいいます。この第三のアダムが来て一番目のアダム、二番目のアダムの失敗を全部蕩減復帰しなければならないのです。父母が過ったのです。ですから、父母がみな、責任を負わなければなりません。
皆さんは、なぜ先生のみ言に服従しなければならないのでしょうか? 先生が世界的な個人蕩減復帰をしたからなのです。何でもってしたのでしょうか? 先生は、世界的な個人責任分担を完遂することによって世界的な個人蕩減復帰の基準を掌握したというのです。
その次にはどのようにしなければならないのでしょうか? 出ていかなければなりません。家では駄目なのです。家の中では絶対駄目です。本来のエデンの園において上がっていく原理の道は、長子が行くようになっているのです。蘇生、長成、完成、これは長子が先に上がっていくようになっているのです。そのようにして完成するのです。
先生についていうならば、み旨から見るとき、アベル的世界の代表なのです。次子の位置にいます。三番目の息子として来たのです。分かりますか? ですから、一番目の息子であるアダムが上がっていったその基準を復帰せずしては、この道を上がっていけません。完成の道は長子の子女が先に行く道なのです。ですから、先生が三番目の息子の立場に立つならば駄目です。出ていって長子復帰をしなければなりません。出ていって戦わなければなりません。出ていって長子を自然屈伏させて、戻ってこなければなりません。
そうして長子が、自分が行く道は立てておいて、「天側の人であるお前が先立たなければならないのであって、私は行けません」と言って、ここから押してやらなければなりません。押してやらなければならないのです。押してやらずしては上がっていけません。代わって上がっていけという、相続を受けていかなければならないのです。そうして、家庭基準で勝利したならば氏族圏に出ていき、氏族の長子を全部屈伏させて連れてきて、氏族圏から民族圏へ上っていくのです。宗教で出家という言葉がありますが、それはなぜそう言うのでしょうか? それは、原理を知らないからです。何のことか分かりますか?(一九八五・一二・二四、本部教会)
宗教が今日までなぜ受難の道を行き、なぜ宗教が歴史路程において迫害を受ける時に発展するのか、その原因が分からなかったというのです。このようなすべての霊界と宗教世界、神秘の世界の背後でねじれた、サタンと神様だけが知っている秘密の内容を明らかにした人は、歴史始まって以来、レバレンド・ムーン、先生しかいないというのです。これは、空論ではないのです。そのように動くのです。そのまま、そのとおりに動くのです。皆さん、伝道してみなさい。その人たちが決心して統一教会に行くと言えば、必ずサタンの役事が起こります。間違いないのです。公式的なのです。
ですから、自分が勝利しようとするならば、出ていかなければなりません。出ていって長子権を復帰しなければなりません。その長子が、弟である次子にお兄さんのように侍り、すべての祝福をお前によって受けますと言うことができるようにならなければなりません。そうして、長子が次子の位置に入ってきて、次子が長子の位置に上がってこなければなりません。そうして、長子が、「お前が私の代わりに上がっていけ」と、このように押してやってこそ長子圏氏族から長子圏民族へ出ていき……。この業を行ってこそ一段階ずつ上がっていくのです。長子が代わって押してやってこそ上がっていくのです。そのまま上がっていけないのです。このような原理的な内容があるので長子権復帰基準を完成しなければなりません。そうでなくては神様の摂理を成すことができないというのが宗教歴史の秘密なのです。
それで、出家とは何でしょうか? 真なる宗教の道を行くためには家を離れなければなりません。国を捨て、家を捨てて出家しなければならないという言葉がこうして出てきたのです。(一九八六・一・二一、本部教会)
3 長子権復帰の要素
先生もそうです。先生にも妻がいるし、息子がいるでしょう? 自分の妻と子供たちをサタン世界の人たちと換えることができるのかというのです。返事してみなさい。換えることができますか、できませんか? (できません)。換えることができないならば同じです。神様の息子がイエス様であるならば、神様がイエス様をこの地に送って、サタン世界の人たちを息子、娘につくるといって、養子を息子の位置に立てるために自分の直系の息子を殺すことができますか? 返事してみなさい。
神様は、歴史始まって以来、自分の側にいるすべての人たちに福を与えたのではないのです。全部祭物にしました。犠牲にさせて血を流すようにしました。キリスト教も四〇〇年の間、ローマの怨讐の前に迫害されましたが、全能なる神様が四〇〇年間、どのように耐え忍んできましたか? なぜそのようにして、神様がいないと結論を下すことができるようにしたのでしょうか? なぜ神様がそのようにしてきたのでしょうか? それが問題です。
サタン側は、カインです。兄なのです。天側は、アベルです。この戦いです。神様は長男を愛してから、小さいほうの息子を愛するようになっているというのです。カインである長男は、サタン側です。長男がサタン側になったというのです。その長男を救うためにアベルを立てたのです。アベルを立てて長子権を復帰するのです。長子権を復帰するには、握りこぶしでぶん殴ってするのではなく、愛でもって感動させなければなりません。愛でもって溶かして復帰しなければなりません。愛したという位置に立たずしては、愛して彼らが回れ右する前には自分の息子、娘を愛する道がありません。神様の創造理想から見るとき、本来、長子が先に愛されるようになっているのであって、次子が先に愛されるようになっていますか?
ですから、聖書の歴史を見れば、長子を打つ役事をしてきたのです。長子を打つ前に次子をどれだけ犠牲にしたか分かりますか? エジプトにおいても四三〇年の間、アベルである次子を打ったのちに長子たるエジプトを打って出てきました。国家や民族全体の前に祭物的責任を果たしたのちには、神様が祝福してくれます。祭物を受けたのちに、祭物以上の祝福をするという方式によって祝福するのです。それでエジプトに行ったイスラエル民族が四〇〇年間祭物の役をしたので、イスラエル民族にエジプト民族以上の祝福を与えなければならないのですが、エジプト民族が反対しますから、これを除去する業を天がさせたのです。一日に始まったことが四三〇年間、数多くの自分の側の人を祭物としてカイン世界を救うために、愛するために努力した果てに起こったことです。何のことか分かりますか?
このように見るとき、神様の愛の摂理のためにするならば、統一教会のムーニーたち、統一教会の人たちを犠牲にして、祭物として世界を救おうとしなければならないのです。そのような神様の伝統歴史をそのまま受け継がなければ、統一教会の文先生は偽物です。統一教会のムーニーたちは、偽物です。
既成教会は四十年間、私に反対しました。このごろもそうなのです。その敗残兵たち、既に戦いはみな終わったのです。世界の神学界が今では方向を変えてレバレンド・ムーン神学を宣伝しているのです。中央では既に方向を決定して負けたという調印をしているのに、田舎の山の谷間で敗残兵たちが対抗するのと正に同じです。これ、間もなく、みな消え去るのです。
それでは、先生は、自分の妻よりも、子供よりもサタン世界をもっと愛したのかということが問題です。妻子をもっと愛してはいけません。神様はアベル圏を愛する前にカインを先に愛さなければなりません。カインを愛する以上、アベルを愛してはいけないというのです。(一九八六・二・一、本部教会)
4 長子屈伏の秘法
長子を屈伏させることのできる秘法とは何ですか? サタンは、「神様も完全な神様、神様が探し求めようとするアダム・エバも完全なアダム・エバなのですが、堕落しなかったならば、アダム・エバは、本然の天使長である私を愛することが原理の基準です。ですから、私が堕落して悪い立場にいて、あなたたちは善で正しい立場にいるならば、私を愛したという条件を立てなければなりません。そうでなければ、私の前で神様の振る舞いをすることはできません」と主張するというのです。それが問題なのです。「私があなたと一つになることのできる一つの秘訣があるとするならば、それは何でしょうか? あなたの送った人が、私を愛さなければなりません。神様と一つになって私を愛する位置に立たずしては、愛したという条件を立てずしては、私が占める長子の権利と嗣業を探し求めていく道はありません!」とブレーキをかけるのです。それで、イエス様が怨讐を愛せよと語ったのです。
怨讐を愛せよということは、怨讐の個人だけを愛しなさいということではないのです。怨讐の家庭、怨讐の氏族、怨讐の民族、怨讐の国家、怨讐の世界を愛せずしては、怨讐世界の長子権を探し求めることができないのです。それが、神様が復帰摂理をする歴史的路程であることをよく知っているサタンは、そのように主張してきているという事実を知らなければなりません。
ですから、個人基準の長子復帰をしたならば、家庭基準の長子復帰をするために、必ずサタン家庭が迫害する、殺そうとする一線に出ていって争い、愛でもって屈伏させ、私たちのすべてのことを教えてやらなければなりません。それで、彼らが伝統の良いことも知って自然に心に感動を巻き起こし、涙でもって悔い改めをして生命をささげ、あなたのために祭物になりますと宣誓をせずしては、カイン世界の祝福権を探し求めて戻ってくる道がないということを、はっきりと知らなければなりません。(一九八四・五・一、世界宣教本部)
5 怨讐を愛さなければならない理由
愛をもたずしてはサタンを屈伏させることができないのです。ですから、天国に入っていくことのできる家庭になるためには、神様も堕落した天使長を愛したという位置に立たなければならず、神様の息子、娘の家庭もサタンを愛したという条件を立てなければなりません。そして、皆さんが出ていって戦い、サタン世界を愛でもって屈伏させたという条件の上に立たなければならないのです。「私は、怨讐を全部打ちのめすのではなく、怨讐を屈伏させて長子権を回復するようになった」と言わなければならないのです。
神様が怨讐を打ち殺すのではなくて、怨讐を愛したという条件と、怨讐たるサタンをアダムの代身の位置に立った人として愛したという条件を立てなければなりません。迫害を受けながら涙と血の汗を流し、すべてを耐え抜き忍んで、自然屈伏させて神様の愛を抱いて戻ってきて、初めて祝福を受けることができるのです。
そこでサタンが放してくれるのです。「ああ、あなたは今から天国に入っていける子女になることができます」という公認を受けなければなりません。誰がサインしなければならないのかといえば、サタンがしなければなりません。サタンがしてからのちに皆さんがサインし、皆さんがサインしたものを真の御父母様がサインしなければなりません。真の御父母様のサインを通してこそ、神様の前を通過するのです。それが天国です。(一九八六、二、二二、本部教会)
ですから、今まで宗教人たちは、また、神霊なる宗教指導者たちはみな、どこに集まったのかといえば、天国に入っていく門の前に集まったのです。天国に入ろうとするならば怨讐を愛さなければなりません。その怨讐とは誰なのでしょうか? 堕落しなかったならば、天使長なのです。堕落しなかったならば、完成したアダム、エバと天使長が共に神様の愛の懐の中で天国生活をしたはずです。それが元来の、創造理想なのです。ですから、堕落はしたのですが、サタンは讒訴するのです。「私は、堕落しましたが、あなたが立てられた創造理想は変わることができますか?」と言ってです。変わることができないというのです。「それを実践しておいて私を治めなければなりません」とこう言うのです。その言葉はどういうことでしょうか? 「あなたとあなたの息子が、私を堕落する前に愛したその基準を再び探し求め、愛したという条件を立てずしては、天国に入れません」という話です。そういう時に神様は、「そうだ」と言わざるを得ないのです。それで、イエス様も十字架を負って怨讐のために祈祷しなければならなかったのです。(一九八九・一一、一五、漢南洞公館)