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三 メシヤの責任

 それでは、天が探し求めようとするものは何でしょうか? 真なる位置を探し求める前に、真なる氏族に会う前に、真なる家庭を探し求めなければなりません。真なる家庭を探し求める前に真なる男、女を探し求めなければなりません。この世の中で神様が、「私が探し求める男、現れよ。私が探し求める女、現れよ」と言って歴史始まって以来、数千年間……数千年が何ですか。今、人類歴史を聖書を中心として六〇〇〇年と言いますが、一〇〇〇万年まで延長しなければならないのです。今も二五〇万年以上と言っているのに、数千万年の期間を人類が発展してくる中で、「私が探し求める男!」と呼んだというのです。「男、女」と。

 ですから、堕落した世界の人々は、「私たちが探し求める男、どこにいますか? 横にいる男、前にいる男、後ろにいる男、ずらりと男たちがいますが、彼らは全部偽物です。女たちが願う理想的男、神様が願う、私が探し求める男、そのような男が意地悪い女の中に現れるならばいかばかりよいだろうか」と思っているというのです。男であれ女であれ、モデルの男を眺めているのです。それが希望に満ちた男です。そのような男とは誰なのでしょうか? メシヤだというのです。救世主です。救世主。

 救世主とは何ですか? 救世主の責任は、個人を救うことだけではありません。救世主の家庭を救わなければなりません。家庭を救うより救世主の国を救い、それより救世主の世界を救い、救世主の天地、救世主の主人たる神様を解放しなければならないのです。

 宗教を信ずる人の中に、「私一人、天国に行こう」と言う人がいますが、それは困ります。妻が夫を天国に送り、夫に従っていくと言わなければならないのであって、夫をほったらかしにして、「私だけ行きます」と言うことはできません。家庭を天国に送り、天国に行こうとするのが統一教会の人々です。その次には、大韓民国を天国に送り、天国に行こうとするというのです。世界の万民を天国に送り、天国に行こうとします。神様まで解放し、天国に行こうとする人は、イエス様と同じです。メシヤの責任がそれです。

 メシヤは、「ああ、私は早く天国に入ります」と考えないのです。個人を天国に送り、家庭を天国に送り、氏族を天国に送り、大韓民国を天国に送り、この世界を天国に送り、地獄にいるすべての万民まで解放させて天国にみな送り、「神様のすべての悲しいことを私がみな責任を負います」と言う、そのような責任を負って来られた方がメシヤです。

 そのメシヤ! メシヤは、「私が天国に行って生きる」という考えは夢にもしません。みな天国に送り、そのあとで、「メシヤ、どこに行きましたか? 入っていらっしゃい。入っていらっしゃい」と言われてこそ、行くのです。個人が「入ってきなさい」と言っても行きません。一族ではなくて世界万民が、「早く入っていらっしゃい。入っていらっしゃい」と言うので、「みな、できたのか?」と言って後ろを見るとき、自分の世話になる人がいなくなるようになる時、天国に入っていこうとする方がメシヤです。それがメシヤ思想です。

 そして、神様は地獄を見ると心が安らかでないので、神様が地獄を見なくてもよいところまで解放し、天上天国、地上天国をつくっておいて、救援の道理が必要ないという位置に立った時に、初めて天国に入っていくという人がメシヤです。それは、深刻な話です。深刻な話の中で、最も貴い話なのです。

 個人のメシヤになると言って個人の十字架を負うメシヤは必要ありません。家庭メシヤになれないのです。そうなれば、家庭メシヤを再び探し求めなければなりません。家庭メシヤになったならば、氏族メシヤを再び探し求めなければなりません。召命を受けた人は、このように個人、家庭、氏族を代表して中心になり得る救世主の責任を背負ったので、そのメシヤの願うことは、万民救助が終わり、みな入っていったのちに、入っていくことです。これがメシヤだというのです。ですから、イエス様は、自分が何だと語りましたか? 牧者だと、そう言いました。そして、人々は、羊だと語りました。(一九八九・三・一、本部教会)

 メシヤは、堕落圏とは関係がありません。本然の愛の主体型として来られるので、堕落圏とは関係がないというのです。エデンの園の神様の息子、娘が堕落と関係がなかったのと同じく、本然の息子として生まれました。(一九八三・六・五、アメリカ)