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ク 「根こそぎ私の愛」の意味
どうして神様がこの世界を創造されたのかというと、神様は「愛のゆえに」と言われるのです。では、その愛はどのような形の愛なのでしょうか? 神様は「根こそぎ私の愛」を願われるのです。皆さん、「根こそぎ私の愛」という言葉を聞いたことがありますか? 歌では聞いたことがあっても、そういう愛は知らないでしょう? 考えただけでも神秘的であり、丸ければ丸く、長ければ長く、不思議な愛なのです。では、女性が一人でその愛を探すことができるでしょうか? (できません)。誰を通さなければならないのですか? 醜い意地悪なぼさぼさ頭の青年について行かなければならないのです。そのようになっているのです。
それで、「根こそぎ私の愛」というのは何かというと、根こそぎという言葉は、夫の愛を受けているのに、さらに愛の主人である神様がおられるという時、その気分はどうでしょうか? 夫と神様の愛までも根こそぎ私がもらってしまおうという考えをするでしょうか、しないでしょうか? 「根こそぎ私の愛」の中に、神様をつかんで入れたいですか、入れたくないですか?
「根こそぎ私の愛」の中には、すべてが入っているのです。そこには、夫の愛も入っているし、妻の愛も入っているし、息子の愛も入っているし、神様の愛も入っているというのです。「根こそぎ私の愛」には、すべてが入っているのです。ですから、愛はどんなに入れても持ち堪えることができるのです。父母は愛する心を持っているので、あらゆるものをすべて子供に与えたいのです。与えても与えても与えても、また与えたいのです。愛は、そのように大きいのです。しかし、お金の世界では、私が孝進に百ドル与えても、「もう、あげない」と言えば、それで終わるのです。しかし、愛の心は無限なのです。無限に通じ、無限に大きく、無限なる価値の内容を持っているのです。
それゆえ、愛を備えた人は宇宙を備えることになり、愛を備えた人はすべての幸福を得ることになり、愛を備えた人はすべての面で勝利者になるのです。そういう結論が出るのです。いくら素晴らしく人生を生きたとしても、このような愛を備えて、愛に対する勝利者になれなければ、人生の敗北者なのです。(一九八四・六・二○)