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四 徹夜祈祷

1 夜は神秘性が強い

 夜、深い夜は神秘性が強いというのです。ですから復興会をする時も、昼に復興会をするより夜に復興会をするほうがもっと恵み深いのです。なぜそうかといえば、昼は私たちのすべての感情が分散されるからです。すなわち、視聴覚等、私たちが五官で感じられるすべての感覚が分散されやすいのです。しかし夜はそうでなく、むしろ集中します。すべてのものが私を包囲して私を目立たせ、そういう圏内に私が自動的に立つので、夜は神様と共に恩恵の役事をしやすいのです。神様も役事をよくしてあげられるのです。ですから、夜、食口たちを連れて野原で話をすれば、その話は神秘性を帯びるようになります。また、部落部落を往来しながら食口たちを家まで連れていってあげる途中、話をすれば、その食口はそれを一生の間忘れられなくなるのです。その楽しさは何かで形容することができないのです。そういう価値性を感じられる生活をする人は発展します。

 皆さんも十二時を回り、一番鶏が鳴く声を聞く時まで、み言を伝えてみなさいというのです。どのぐらい神秘的でしょうか。静かでひっそりとした夜に、村の犬がほえる声を聞きながら、み言を伝えてみなさいというのです。あたかもまばゆい陽光を求め、新しい人生の道を打開していくように、灯台の光を求め、新しく航海する船長のような気分を感じるようになるのです。周囲がすべて神秘で満ち満ちた世界を一人行くような勇敢な姿、男らしい姿、荘厳な姿を感じるでしょう。こういう心情的連帯感をもつには、夜の時間を中心にして指導せよというのです。ですから夜や明け方にこういう活動を展開する必要があります。

 ところが、その対象が夫や妻のある人である場合には、必ず問題が起こります。それをよく理解させ、夜の時間を貴重なものとし、夜でも自分の環境を振り切って出てくることができなければなりません。こうした心情的な原動力を備えることが必要です。そうして、その人々がどんな環境でも皆さんが指示するとおりに従えるようにしなければなりません。これは、まずみ言によってそうしなければならないし、その次には行動でそのようにつくらなければならないし、心情でそのようにつくらなければなりません。そうすれば、その人は落ちません。その次に伝道させてみよというのです。他の人を伝道できる程度まで育てておかなければなりません。こうなれば、皆さんは伝道した人を一人も失わないでしょう。(二九―一九六)

2 徹夜祈祷の意義

 皆さんは徹夜祈祷をするでしょう? 精神を天に全部奉り、世間の事情をすべて忘れて……。その境地が何かといえば、眠りの境地に入るということです。そういう境地以上の場所に入るというのです。この肉身のかすが全部沈滞すれば、清い水が浮かび上がるのと同じで、眠りは私たちが精神修養して精神を奉り、悪い意識を全部下ろすということです。眠りの境地、そういう境地へ入れば、皆さんが疲れてうとうとするでしょう? そういう時はすべて聞こえるのです。すべて見えるのです。聞くには聞くが確実には聞かず、見るには見るが確実には見ません。そうなれば何が起こるか? 夢のような現象が起こります。その時何を教えてくれるのですか? 分かりますか? それが全部理論に合わないといけないのです。何のことか分かりますか? (はい)。

 ですから徹夜祈祷をして、すべての肉を断絶し精神を統一して、しきりにささげることによって、未来に自分の行く道が見え、その次にそれが習慣化すれば、全体を操縦できる場所に入るのです。そうなれば祈祷さえすれば目を開けても見えるし、すべて聞くことができる境地にまで入ります。二つを見、二つを聞くのです。そういうところに上がろうとすれば、相当な修練、修養が必要なのです。(九一―二七五)

 私たち人間が堕落することによって、サタンの血統を受け継いだというのです。サタンの血を受け継いだというのです。ですから動くようになる時はこの血が、悪なる血が動いているのです。皆さんはそれが分かりますか? ガラス管のような所へ入れてみれば、濁った水と同じだということが分かるのです。けれども眠るならば、このすべての肉身が休むので、沈むというのです。重いものは沈み、清い水が浮くのと同じです。本来の清いその心は、天と関係を結べるので、ここに象徴的に、形象的にこれから行われるものを夢の中で天が教えてくれるのです。(九一―二七三)

 神様だけを主として、自分が新しいものを刺激できる生活を直接経験しなければなりません。そういう心情を感じながら活動をすれば、そこには必ず繁殖が起こるのです。そうすれば発展するのです。生きている木には新しい芽が出てくるのです。きのうときょうは違うというのです。そこには必ず生命力が躍動するのです。それに反し、根のない木は死んだ木です。きのうときょうが変化するのです。

 皆さんがこういう感情を失う日には、生死を懸けて祈祷せよというのです。徹夜祈祷をしてでも精誠を積んでいかなければなりません。神様は皆さんがそういう生活をしようとすれば、わざとその時間を奪っていこうとするかもしれません。そうなればいくら努力しても望みを見つけようにも見つけられないでしょう。努力すればするほど、もっと真っ暗な窮地に入る時もあるというのです。そうなる時には、くっついてくるサタンまでも自分の側に屈伏させて神様に侍らなければいけないという心をもって、もっと強く闘えなければならないのです。(三〇―一三三)

3 教会ごと徹夜祈祷をしなければならない

 昼も働かなければなりませんが、宗教の仕事は夜しなければなりません。夜が効果的なのです。夜教えてこそ、効果的だというのです。それから、明け方に教えてあげても効果的です。そうやって、一度来た人がそれこそ来ずにおられず、家から逃げてくるくらいにしなければなりません。皆さん自身がそうしなければなりません。動機がないのに結果がありますか? 皆さん、今まで駄目だったなら、今よりもっと熱心にやって、もっとうまくやりなさい。他の方法を研究してでもやりなさい。(九七―一九六)

 至聖所、聖所がなくならなければなりません。今後霊力が強くなり、霊が明るくなります。そこに汚点があってはいけません。公的な立場を離れて生活をしてはいけません。教会を守るにおいては、祝福を受けた者同士が三位基台を編成して守らなければならず、寝てしまってはいけません。サタンが主管する夜まで主管するために、徹夜して守らなければなりません。教会をあけてはいけません。四方にかき混ぜても安心できる時までそうしなければなりません。ですから暗号訓練をしなければなりません。全国にいる食口たちは、三日から七日以内に互いに連絡できなければなりません。暗号はサタンに知られてはいけません。これでサタンを審判しなければなりません。食口が七十名、百二十名になる所では、夜があってはいけません。居眠りしてもいけません。絶対に夜があるようにしてはいけません。

 今後集会は夜多くもつのです。闇の世界を打ち破っていかなければならないからです。そういうことをするためには、切々たる心情をもたなければなりません。公的な仕事に責任をもっていくことが、どれほど貴いことでしょうか! (一一―二四七、一九六一・一一・一)

 神様を身代わりして働けるでしょうか? 自分が全体を身代わりして責任を負っているという思想をもたなければなりません。全体を代表しているという思想をもたなければならないのです。全体の前に支障がある時には、それを自分の責任と思い、身の置き所をなくし、夜を明かしてでも祈祷し、昼夜を分かたず精誠を尽くさなければならないのです。こういう所にいる人は、体は地にあっても神様のことを代行する所にいるので、神様はその人に協助するのです。

 ですからその場所では発展せざるを得ないのです。そこには喜びと栄光と希望がとどまり、強い力がとどまるのです。神様が共にいらっしゃるのです。神様が共にいらっしゃるので、生命力が宿るのです。そこに愛の心が継続するのです。

 そういう人になるための第一の条件は何ですか? 「私は全体のためにいる人間です。ですから夜なら夜、昼なら昼、時に関係なく二十四時間彼らのためにいます」という思想をもたなければならないのです。こういう人は、絶対サタン世界で滅びません。(四四―一三)

 毎日のように慕わしく思えない人は神様に侍れません。皆さんはこれを知らなければなりません。誰を慕わしく思っても、いつもしみじみとした慕わしさにあふれていなければなりません。ところが夜十二時になりさえすれば、「さあ、寝よう」と言う人は、神様に心配をかける人です。天国は夜と昼がありません。心情の因縁を抱き、出てくる時は夜が問題ではないのです。(一七―二九三)

 今や三分の二は越えてきました。ですからもう三分の一しか残っていないというのに、心配することがありますか? そういうことは心配もしません。そういう問題では祈祷もしません。今まで経済問題では絶対祈祷しませんでした。私はお金を下さいなどという祈祷はできません。祈祷は原則的祈祷をすべきで、むやみにすれば蕩減を受けます。災いを受けます。私のような人間は、絶対に欲望をもって祈祷しません。

 さあ、そういうことで、お金がなかったり、物がなかったりする時には徹夜祈祷をするように願います。祈祷する場合においては、自分を慨嘆する祈祷ばかりしてはいけません。大韓民国を中心に、北韓の地に住んでいる民のために祈祷し、ソ連を中心に共産圏内で今呻吟する労働者たちのために祈祷しなければなりません。あのシベリアの原野で死んでいくかわいそうな人々のために祈祷せよというのです。彼らのために北韓を解放し、そこまで行って解放できる道を整えさせてほしいと祈祷してこそ、天が聞いてくださるのです。(一六六―一九三)

 土曜の夜には教会で徹夜をしなければなりません。(一七―三四七)

 皆さん、徹夜祈祷をしますか? 徹夜祈祷しなければなりません。講義する人は必ず、夜一食断食してから講義せよというのです。精誠をささげよというのです。そうしなければすべて流れてしまいます。しがみついて訴えよというのです。切々と訴えよというのです。父母が愛する子供に訴える以上に、師が愛する弟子に訴える以上に、妻が愛する夫に訴える以上に訴えなければなりません。そうでなければ天が共にありません。(一六六―一八一)

4 お父様の徹夜生活

 責任者は、三十日のうちで十日間は家にも帰らずに、外に出て寝なければならないと私は思うのです。夜を明かしながら話をしてあげるのです。「そうせよ」と言えば、皆さんは全部逃げるのです。どうですか? 逃げないでしょうか? (はい)。

 先生がそうだったのです。一九五七年度に韓国で食口をつくる時には眠りもしなかったのです。一対一の作戦をしたのです。一対一の作戦です。残るのは一対一の作戦なのです。一人を前にして講義する時、百人、千人を前にして講義するのと同じ思いでしたのです。その一人に数千、数万人がぶら下がっていると思ったのです。私がどんな命令をしても聞くことができる、そういう人にするためには、私がそれぐらい精誠をささげて、そうできる動機をつくってあげなければなりません。

 さあ、私を通して皆さんがそうなり、皆さんを通してアメリカ人がそうなればアメリカは生きるのです。そうなる時、三段階の因縁が結ばれるのです。私と皆さんが一つとなり、皆さんと地方にいる食口が一つになるのです。こうならなければなりません。それはなぜそうなのですか? なぜ三段階になっているのですか? 神様とアダムが一つになり、アダムとアダムの息子が一つになったのと同じことなのです。それが原理なのです。三段階が完成できなければ、四位基台完成圏が現れません。これです。分かりますか、何のことか? そう、皆さんが皆さんのような人をつくっておくことができなければならない、ということです。皆さんのような人を個人的に……。問題がそれなのです。(九六―二八五)

 今、先生が行く道においても、私がどうにもできない力に引かれていっています。皆さんも統一教会に来てからは、ある大きな力が皆さんを追い立てていることを感じるのです。苦労し、悪口を言われてこそ、かえって力が出るのです。先生もある時は足が腫れ、動けなくても「この足め、お前は神様のために行かないと駄目だ」と言いながら、この道を行っています。

 今、み言を語り始めて長い時間が流れましたが、時間の観念なしに話したところ、時間がたつのも忘れて聞いています。皆さんが時間がたつのを忘れているのは、神様の愛に酔っているからです。ですから統一教会は、夜を明かしてみ言を聞き、み言を語るのが普通でした。(九七―二〇九)

 朴普煕もいつも祈祷をあまりしないのです。先生を代わりにして、しがみついて出なさいというのです。「先生はこういう場所でこうするだろう」という心情的場所へ入っていける人がいません。朴普煕が今までよくやったのはそれです。先生に報告するとなると、できるだけ細かく報告しようとします。それはなぜですか? 先生が報告を聞いて心から喜ぶので、先生を喜ばせるためにです。

 いくら疲れても、夜十二時を過ぎても、先生の目が鉄砲玉のようになって、喜んで報告を受けられるようにしようと材料を収集してきます。それが貴いことです。そうするには、出ていって前よりもっと良い材料、もっと努力した材料、もっと成果を上げた材料をもってきて先生に見せないといけないのです。ですから精誠をささげなければなりません。出ていってむやみにそのまま講演しないのです。原稿を書いて出ていきます。そうなれば、そういう人たちはもっと確実に発展するのです。(一六六―一八二)

 ですから精誠をささげなければなりません。精誠をささげる時には、むやみにささげないで、かわいそうな人を立ててささげなければなりません。先生はある人を前にして精誠をささげる時、その人が御飯も食べられず着る服もないと思われると、寒い時も服を脱ぎ、その人のために祈祷する時がたくさんありました。そういう基準があるので、今日このぐらいにまで基盤を整えられたのです。

 人知れず涙もたくさん流し、かわいそうな人々を見れば、彼らを助けてあげるために世のすべてのものをみなあげたくなる時もありました。そうかといってそれが罪になりますか? あげたい心、助けてあげたい心をもって欲望をもつようになる時には、神様も褒められるのです。自分だけ食べて生きようというのではなく、全部が良くなるために、現在は苦痛でも、未来は良い暮らしができるように欲を出すのは良いことです。

 医者が手術をしようとメスを取り上げたところ、夜十二時になったといって居眠りをするでしょうか? そういう医者と同じで、生命に責任をもっている人たちはそれだけ深刻でなければなりません。こういう観点から皆さんを見れば、全部流れていってしまう人たちのようです。(四二―一六九)

5 イエス様と徹夜祈祷

 イエス様も夜を明かして祈祷をしたのです。過去に天の仕事をした人々も、祈祷せずには大きな仕事ができなかったのです。そういう祈祷する姿勢をもつことによって、神様のみ旨がいつ成されるかも知らず、自分が祈祷すれば成されるかどうか分からずとも、待つ心にならないといけないのです。(一〇四―一一一)

 イエス様のような方も、徹夜祈祷をたくさんしたのです。断食祈祷をし、愛する人を全部捨てて一人孤独な場所で……。それをいうのです。先生もお母様と一緒に住んでいますが、今でもそういう生活をしているというのです。そうでないとふさいだ気分になるのです、いつでも。(九四―一五七)

 今、天のみ旨を中心にした一人の旗手となり、人間の力をすべて尽くして叫ぶ時、その叫びが地上だけでなく天に及び得る時になりました。イエス様の時代より良くなったのです。イエス様は、ゲッセマネの園で夜を明かしつつ祈祷しましたが、その三度の祈りにも反応がなかったのです。民族はもちろん、ユダヤ教会も反応がなかったのですが、今私たちの時はそれとは違います。自分が死を覚悟して出ていけば、反応を起こせる群れが国家を越え、世界にいくらでもいます。私たちはこういう時に臨んでいるのです。

 ですから一夜を明かす場合も、食口のために明かさなければなりません。自分のために夜を明かす人はペテロになるのです。民族のために、世界のために夜を明かしたのがイエス様の立場ではなかったのでしょうか? 死が行く手を閉ざしてくる、そういう運命の道でもイエス様が心配したことは、自分の死ではなく弟子たちを心配し、民族を心配したので天の同情が臨んだのです。ですから復活したのではないでしょうか? 皆さんはそれを知らなければなりません。正にそういう時が今です。

 今こそ私たち統一教会の教団が、イエス様がゲッセマネの園で夜を明かして祈祷した時と同じように祈祷する時が来ました。夜を明かして祈祷するにおいて、自分のために祈祷する時ではありません。私たち民族のために祈祷し、世界人類のために祈祷すべき時です。そのことのために夜を明かし、そのことのために共に泣く群れは滅びないのです。死の道も共に行くことを決意する人は滅びないのです。その瀬戸際の道が、復活の約束をできる最後の判決を下すのです。自分を滅ぼすのではなく、滅ぼすようでいて、復活を促すことのできる生命の動機を付与してくれるのです。そういう時代が私たちの前に近づいています。(六〇―三〇)