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神様が送られた預言者たちは、自分のための存在ではなく、神様が「手を取れ」と言われれば取らなければならない、神様にすがるしかない存在です。どんな責任者でも、そのようにしなければ、神様にすがることができないので、落ちてしまうのです。しかし、彼らの苦労に対して同情する前に、彼らを送るまで神様の苦労がもっと大きかったことを知らなければなりません。(一一・二八一)
「エステルの笑顔をもちなさい。どんな冷遇を受けてもすべて受け入れることのできる姿をもちなさい。悲しくても悲しまない姿をもちなさい。悔しくても、その悔しさを忘れることのできる姿をもちなさい。悔しさに心が痛んでも、生まれたことを忘れることのできる覚悟をして耐えなさい」と神様は勧告されました。このような事実を回顧してみるとき、神様は今日、このように現れなければならないという事実を、皆さんは知らなければなりません。(一七・九二)
二千年前イエス様は、ベツサイダの近くにある野で、多くの群れにパンを配ってあげました。ところで、パンを食べた人々が、どうしてみんな滅んでしまったのでしょうか? み言を聞いたその民族が、どうしてイエス様を裏切ったのでしょうか? 三年間一緒に苦労しながら従っていた弟子たちがどうしてイエス様を裏切ってしまったのでしょうか? 彼らが裏切った理由は、み言がその日その日のためのみ言であるとだけ思い、与えられるパンが、その日の、その一時間の、腹を満足させるために下さるものとだけ思っていたためです。イエス様が下さったみ言が自分自身を通じて、世間の果てまで広めなければならないみ言であるということを知りませんでした。イエス様が与えてくれるパンが、自分を通して世界人類に配って与えなければならないパンであるということを知らなかったのです。(四・八五)
皆さんは、中世において清貧の生活をした代表者としてのフランチェスコ(Francesco)を知っておられると思います。彼は、清貧を主張しました。そのようにしながら、困難な生活、外的な環境に追われていながら、恨み、不平、悲しみ、苦痛を感じたりしませんでした。そのように感じていたなら、天のみ言を引き継ぐことはできませんでしたが、その苦痛の中で新しいものを模索する、そのような立場に立っていたので、神様が協助したのです。そうして、新しい時代を私たちがそこから探し出すことができるのです。(六六・四一)
私たちが、聖フランシスの聖業を通じて知っているように、万物、すなわちすべての被造物が擁護してくれることが、どれほど幸福なことですか? もちろん今まで、皆さんは迫害もたくさん受けたことと思います。済まなく思います。しかし、仕方がありません。お父様がそうされたからだというのです。代わりにお父様を所有し、お父様の心情を所有してください。(一一・三二二)
韓国にキリスト教が初めて入ってくる時、トマス(Thomas)牧師が血を流しながら死んでいくその場で祈祷する時、「お父様、私がここに来て死にます。私は救われるために伝道に来たので、私は天国に行き、この民族は地獄に行かなければなりません」という祈祷をしたでしょうか? 違います。「お父様、私は死んでも私が流したこの血の代わりに、この民族を復活させてくださいませ」という祈祷をしたのです。そうしたので、三千万民族が、彼を神の息子として追慕できたのです。
国を利用して自分が輝こうとする人は、国とは関係のない人です。私たちは涙を流しても、世界のために流さなければなりません。ここで国家的な悔い改めがなされなかったので、国家のために涙を流さなければなりません。まだ世界的な悔い改めがなされなかったので、涙をとどめることができないのです。そうすることのできる未来に向かっていく人々は、歴史のみ旨の前に因縁を結ぶようになるでしょう。
皆さんは、自分を中心として出発するのでなく、神様を中心として出発しなければなりません。自分を中心として出発すれば、神様に痛みを残すのだということをよく知らなければなりません。皆さんは、必ず神様と共に行かなければなりません。祈祷ができなくてもいいのです。神様が悲しければ、我知らず悲しい心となり、今日のように、天気が晴れ澄んで、環境に喜ばしい内容があれば、我知らず喜ぶ立場になればよいというのです。(三二・一一一)