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二.統一思想とは

1 序言

 今日、我々が住んでいる世界では、民主世界と共産世界が問題になっていることを、我々は知っています。相克的あるいは相衝的な、相反的世界情勢を我々は目前に直視しているのです。ではこれから先、世界の中心となることのできる思想はどのような思想でしょうか。これが問題になるのです。(六五―一九)

 思想とは何ですか。思想とは物質ではありません。それは見えるものではなく、考えです。主義は、その思想に依拠して現れるのです。ですから、唯物主義には、思想という名詞が成り立ちません。ですから、これを代置できる思想が現れなければなりません。言い換えれば、完全な真理による思想が現れなければならないのです。これは人倫と宗教理念を付合させ、結束させ、統合させることができなければなりません。

 その真理は歴史と時代を超越できなければなりません。また、その真理は過去のある先知者や英雄、烈士が追求したものとぴったり合わなければならないのです。それは、宗教人が追求する基準にもぴったり合わなければならず、哲人や政治家、ある経済人が追求することにもぴったり合わなければなりません。同じ結論に到達できなければなりません。そうでなければ、統一された一つの世界を成すことはできません。今まで外的にはそのような形態を整えてきましたが、内的に収拾できる真理は現れませんでした。言い換えれば、統一的な思想の改革が現れなかったのです。(二四―一〇六)

 イエス様が十字架にかけられた時、右側の強盗は天のために生きようとしましたが、左側の強盗は天を不信する立場を取りました。このように、今日、世界は両大陣営に分かれています。すなわち、右側の強盗と同じ立場で形成された右翼世界と、左側の強盗と同じ立場で形成された左翼世界に分かれています。ですから、左側の強盗型である左翼世界は、神様を分からないという世界になったのです。

 では、そのような世界で証しなければならないことは何ですか。真の愛です。ですから、今までイエス様の名によって証したことと同様に、これからは天を求めていく宗教的形態を備えた国家が現れて、真の愛を証しなければならないのです。今までは、イエス様自身の理念が現れませんでしたが、今はイエス様の理念が現れなければならないのです。ですから、終わりの日には、ある新しい何かが必ず現れなければならないのです。

 では、終わりの日に全人類が願うことは何なのでしょうか。イエス様が主張した真理ではなく、主張できなかった、その背後の心情を越えることのできる何かであるというのです。ですから、終わりの日には必ずそれが現れなければならないのです。そして、その時がまさに世界的な理念時代です。そのような時が必ず来なければならないのです。(四―二四七)

2 統一思想は愛主義 

 民主主義と共産主義の実験は、既に終わりました。では、レバレンド・ムーン主義あるいは統一主義、神主義とはどのような主義でしょうか。愛の軸を共通の分母として、存在原則がその軸に平行線として愛的理想循環存在として存続しなければなりません。言葉だけでなく、事実がそのようにならなければなりません。(一九八五・一二・一二)

 神主義とは何ですか。愛主義です。我々統一教会は絶対的な神様に従う、神様による愛を中心とした、神主義に対する相対的な神主義を獲得するためのみ業をしている者です。(一六三―八九)

 統一教会に世界が反対したのは、このような摂理的背景のためであることを知らなければなりません。国家と世界が統一教会を反対するので、それに立ち向かうために思想をもって来なければならないのですが、それが神主義です。神主義は神様を中心とした愛の理想主義です。統一教会が二つの世界の前に、神主義を前面に立てて戦ってきたのは、このような理由のためです。(一九八五・一・四)

 統一思想とは何でしょうか。神様の愛を占領して、真の父母と真の家庭と真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界まで占領できる、そのような思想です。(一九八〇・四・一五)

 統一思想は自己の国を犠牲にさせ、世界を救おうという思想です。これは結局、犠牲ではなく世界とすり替えるためにそうするのです。より大きいものを得るために、より小さいものを犠牲にすることは正常的です。もっと価値あるものにすり替える人が知恵のある人です。それが、世界に行くための正当な道です。人間はより大きいものを憧憬するのであり、小さいものを憧憬しません。より大きいものを望むのであり、より小さいものを望むことはないのです。(三五―二八〇)

 現在、世界にある諸国家を見れば、外交問題を扱う外交官たちが何をすればよくやると考えるかと言えば、他の国をまんまとだましてこそよくやると考えます。そのようにしていれば、世界がどのようになるでしょうか。希望がないのです。統一教会では個人が犠牲になって家庭を残し、家庭が犠牲になって氏族を残し、氏族が犠牲になって民族を残し、民族が犠牲になって国家を残し、国家が犠牲になって世界を残し、世界が犠牲になって神様を残そうとするのです。この思想は、世界を犠牲にして神様を残そうというのです。

 そのようになる時、皆さんが滅びますか。この枝が滅びますか。幹が滅びますか。神様はどうですか。すべて残ります。そうなれば何が起こるのでしょうか。繁盛するのであり、そこには幸福の起源が現れるのです。これが統一思想です。そのようにすれば統一できます。そうでなければ世界を統一する道がない、と断定して現れるのが統一思想であるというのです。それで、私は家庭に帰り、家庭は氏族に帰り、帰って帰って、根に帰ろうというのです。早く帰ろう、そういう言葉です。(七九―二二四)

 我が統一教会が他と違うものがこれなのです。統一教会は何かと言えば、お父さん、お母さんを愛するように兄弟を愛して、兄弟を愛するように氏族を愛して、民族を愛して、国家を愛そうというのです。お父さん、お母さんを捨てても、国家を愛そうというのです。世界を愛するためには、自分の国も捨てなければなりません。また、天を愛するためには、世界まで捨てようというのです。より遠く大きいもののために、私に近く小さいものを犠牲にする愛の道を探していこうというのが、統一教会の主流思想です。簡単なのです。分かりましたか。(はい)。

 そうですが、その思想はどのような思想でしょうか。それは先生の思想ではありません。アメリカで話すレバレンド・ムーンの思想ではありません。ここで話すとおりにしようとするならば、先生の思想ではありません。その思想は本来、神様の思想です。神様はどのような方であるかということを見る時に、自己よりも相対をもっと愛する方です。自己よりも相対側をもっと愛し、二人が一つになり、もっと大きい範囲の相対側を愛するための運動が、神様の運動です。神様の思想はこれが本質になっているために、神様は神様の前に一番近い人を悪なる世界に送って、世界人類のために犠牲にするのです。これが、神様の思想です。(一〇〇―八〇)

 統一教会の主義、先生の主義は何ですか。先生の主義は、大韓民国を主とした主義ではなく、世界を主とした主義です。今、大韓民国を必要とするのは、世界を愛するためです。また、既成教会を必要とするのも、大韓民国を愛するためです。橋を架けるためです。結局は、世界を愛し、天地を愛するためです。

 そうしようとするならば、どのようにしなければなりませんか。自己に一番近い人を犠牲にしなければなりません。今まで、この世を復帰するために苦労してこられた神様の主義はどのような主義でしたか。悪なる世界を救い、かわいそうな人を救い、貧しい人類を救うために、神様に一番近い人を犠牲にさせて救援してこられました。(三三―二九八)

3 統一思想は神様中心主義

 今日、民主世界が第三解放を要求するならば、共産世界では第二解放を要求するのではないでしょうか。このような問題を見る時、第二解放、第三解放の旗手となり、その源泉にすることができる新しい主義と思想はどこから来るのでしょうか。それは、人間世界からは出てくることができません。人間は今まで数千年の間、この解放を迎えるために身もだえしながら努力してみましたが、そのような環境も、内容も、手に入れることができませんでした。ですから、人間だけを中心としては、解放できないのです。(一三―二二五)

 皆さんは民主主義者になりますか、世界主義者になりますか。(世界主義者です)。宗教は、世界主義のみではありません。人間だけよくしようという主義ではなく、神様までもよくしようという主義です。しかし、共産主義や民主主義は、人間だけよくしようという主義です。ですから、神様までよくしようという主義と、人間だけよくしようという主義と、どの主義がよりよいですか。言い換えれば、神様も好み人間も好む主義がよいですか、主人を抜いて僕同士のみ好む主義がよいですか。(神様と人間が互いによいと言う主義がよいです)。そう答えるのを見れば、それでも、分かるには分かるのですね。ですから、宗教はよいのです。(四一―四四)

 神様だけ好む主義ならばよいですか。原則的に言えば、神様だけ好んでもだめなのです。神様も好み、人間も好まなければなりません。共産主義者たちが主張することを見れば、神様がいないと言います。彼らは、物質がすなわち生命であると言います。おそらく地獄には行かない、とそう言うでしょう。共産主義は、結局、終わりに行っては滅ぶのです。宗教も、神様だけを主とする宗教は滅びます。また、人間だけを主とする宗教や主義、思想も滅びます。

 では、神様と人間をよくする主義を神様の世界で歓迎しますか、しませんか。また、人間の世界でも歓迎しますか、しませんか。歓迎するのです。(四一―四四)

 我々がもっている、共産主義より一歩さらに進んだ高い思想である天宙主義とは何ですか。これは、万民解放のみを目的にするものではありません。神様まで解放しようというものです。したがって、心情の世界でなければなりません。心情の鎖に連結されている父母なので、子女が解放されない限り、父母は解放されません。ですから、心情の歴史をつくりましょう。心情の伝統を立てましょう。心情の世界をつくりましょう。ですから、内容が違わなければなりません。そうして、神様を解放してあげましょう。(五五―五〇)

 皆さん、統一教会の思想は、天地を解放しなければならないという思想です。(九一―二八一)

 統一教会は何の主義でしょうか。神主義です。このように見るのです。神主義、その観に通じた個人は、どこに出しても心情が通じます。観念的な神様に侍るのではなく、生活的な神様に侍ろうというのです。統一教会では、神様の心情を論じるのです。

 今日、「神学」と言えば、神学は神様について学ぶのです。しかし学んで、知ることによっては、心情は分かりません。皆さんはそれを知らなければなりません。知ることによっては、心情が分からないのです。「統一教会の文先生があの人だな。目はそうなって、鼻はそうなって、どこかはそうなって、私が見たらそのようになっているなあ」、このように見ることによっては、私という人物が分からないのです。ですから、その人と住んでみなければなりません。分かりますか。どのように立派であると言っても、住んでみれば、その他のことがみんな現れるのです。そうでしょう。(はい)。住んでみなければなりません。住むときには、盲目的に住むのではなく、上手に住まなければなりません。(五九―一〇一)

4 統一思想は天宙主義

 共産主義と民主主義は、真理すなわち理論を中心として互いに対決しているのです。今からは、国境を超越する天宙主義が現れなければなりません。主義自体が目的ではありません。

 世界的な終末になれば、天宙主義によって民主と共産はすべて凌駕されなければならないのです。ですから、民主主義と共産主義を吸収できる主義が現れなければなりません。すなわち、個体を中心として全体を束ねておくことのできる主義がなければならないのです。

 終わりの日が近づくにつれて、我々に必要なものは何ですか。それは、神様の人格であり、心情であり、価値です。すなわち、願いと事情と心情が問題なのです。今日、勢いを得ている世界のすべての主義は、神様と相関があるのです。(一六―二七三)

 統一教会は、何をもって出現したのでしょうか。統一教会の思想は一言で言って、悲劇の人類歴史を終結させ、希望に満ちた新歴史を成就するという内容と目標をもっていると言うことができます。統一思想は、天宙主義という思想です。天宙主義は、霊界と現象世界を一つに統一、または一致させるという思想です。統一思想である天宙主義の中に全世界が入ってきたとしても、その一部を占めるくらいですから、統一思想の膨大なことといったら、人間の想像力を超越していると言えます。天宙主義は、全世界のみならず宇宙と霊界、神様までも、一つに連結できる思想であるということを知らなければなりません。統一思想である天宙主義は、理想的な法度基盤の上に立った主役なのです。(一九八六・一〇・二一)

 より大きい思想、より大きいみ旨を抱いて行くようになる時は、それより弱いみ旨の基準は、そこに包含されてしまうのです。ですから、人は高い思想をもたなければならないのです。そのような点で、世界史上に現れた思想の中で、統一思想よりもっと大きい思想があるでしょうか。そのような面から、統一思想は最高の思想であると言えるのです。(四九―九一)

 大韓民国が、世界のために滅びようと言うようになれば、大韓民国は滅びません。これを見る時、我々統一教会は何のために滅びようと言うのかといえば、神様の愛を中心とした天宙主義のために滅びようというのです。この天宙主義という言葉は漠然としていて、皆さんの心とか考えの中に入っていかないのです。そうですが、ともかく一番大きい主義なのです。天宙主義なのです。天の家ですから、神様も詰め込み、人間も詰め込み、みんな詰め込もうというのです。しかし、きっちり詰め込むことだけをしようというのではありません。天宙主義は天宙主義ですが、神様の愛を中心とした天宙主義です。ですから、神様の心情の歴史を語るのです。(六一―八三)

 神様はどのようなお方でしょうか。天地の大主宰であられます。その方は最高の理想をもっていらっしゃるので、目的の基準にもなり、動機の基準にもなります。ですから、我々が存在するようになった動機は神様であり、目的も神様です。では、その動機と目的をどこから探すのでしょうか。その動機は神様のみ旨を中心とした家庭であり、その家庭をして世界的な目的を達成するようにするのです。これが統一思想です。これは、いずれにしても、若い皆さんがもたなければならない最高の基準であり、すべてのものを一点に結びつけることのできる思想です。

 今までの歴史時代のどのような思想も追従できない内容をもっているのが、まさに天宙主義というものです。これは、世界のどのような思想をも凌駕できる新しい思想であり、この思想の特徴は「家」です。「家」という意味の「宙」の字の、天宙主義です。(二五―八三)

 統一教会の主義は天宙主義です。天宙主義はもちろん、天と地を一つに合わせる主義ですが、天宙の「宙」の字は、「家」の「宙」の字です。言い換えれば、家庭主義なのです。男性は天であり、女性は地です。この二人が一つに統一されれば、天地が統一されるのです。そうでしょう。その言葉がどのような言葉かと言えば、心情を中心として、氏族、民族、国家、世界を超越して、家庭を鉄の城のように一つにしていかなけばならないということです。民族が問題ではなく、氏族が問題ではなく、人種が問題ではないのです。これを一つに束ねることができるようになれば、世界は一つになれるのです。(三七―七七)

 天宙主義の天宙とは何ですか。天地です。内的な面と外的な面で、神様と一つになった人、すなわち、心は天を象徴して、体は地を象徴しますが、これが神様を中心として一つになる主義を言うのです。元来エデンの園で、心と体が一つになったアダムと、心と体が一つになったエバが、神様を中心として一つにならなければならなかったのです。このようにして、神側の家庭を成せば、神様がアダム家庭に臨在するのです。これが人類の希望の根になるはずでしたが、崩れ去ったのです。そうして堕落した人間は、行くべき方向を分からずにあえぐ中で、神様の摂理の終わりの日まで来ました。このような時代の人類に、本然の生活基準を教えてあげるのが統一理念です。ですから、皆さんがここに集まったのです。(二〇―三〇九)

 我々が主張する主義は共産主義でもなく、民主主義でもありません。より重要な主義であり、それがまさに天宙主義です。その主義は、エデンの園でアダムとエバが必要としていた最後の所望基準であり、最後の主義です。この主義を通して、神様と人が一つになります。すなわち、神様と皆さんが一つになるのです。これが成されてこそ、これから世界を収拾できるのです。(二〇―三一〇)

 真の人の立場にどうやって上がるかということが問題ですが、我々がそのような実力をもってすべての社会の悪と不安を屈服することができ、天地を後ろにして幸福を模索でき、善の基準を立てることのできる主体的な立場に立つならば、世界的な問題になるのです。これは歴史的であり、世界的な事件です。そのような意味から、我々が行く道は、将来二十一世紀後半に入っていっても世界的な問題になるのです。そうならなければ、私がなるようにするのです。これが、我々の天宙主義思想なのです。(二一―一八)

5 統一思想は共生共栄共義主義

 皆さんは、必ず、真の父母を中心とした生活をしなければなりません。そうしてこそ、天と地が、人倫と天倫が互いに会うことができるのです。

 真の父母という言葉を考えてみる時、面白いことは、真の父母なしには真の子女が存在できないということです。平面的に父母を天であると見れば子女は地であり、父母を上と見れば子女は下であり、父母を前と見れば子女は後ろになるのであり、父母を右と見るならば子女は左になるのです。それを皆さんが、はっきり知らなければなりません。

 皆さんは、今までご飯を食べても一人で食べてきました。今まで皆さんは、そのような観点で過ごして来ました。統一教会で、侍ることによって救援を受けるというのは何のことですか。一人で食べるのではなく、父母と共に食べるのです。それはすてきなことではないですか。見物に行っても、一人で行くのではなく、父母に侍りながら一緒に行くのです。

 天と地に侍りながら生きるということがどれほど偉大であり、恐ろしい観念であるかということを、皆さんが知らなければなりません。これを「そうだ」と実感する日には、ここに屈服しない、降伏しない人がいません。そのような精神をもって「間違いなくそうだ」と体験して実感する人たちは、どこの何者にも屈服する者がいないのです。原則を外れて屈服したとしても、必ず、その原則に再び帰結するので、結局は屈服したのではないのです。

 ですから統一教会では、それに完全に屈服して体験しなさいというのです。そうすれば、天下に征服される理由がないであろうし、侍ることによって救援を受けるというのです。ですから統一教会では、侍る生活を通して救援を受けると主張するのです。分かりますか。そのような信念をもった宗教は、世界のどのようなところでも越えることができます。このような観点から見る時、今日、我々統一教会の思想がどれほど偉大であるかを、皆さんが分からなければなりません。

 人類が願いを懸けて感謝しなければならないものが、これでなければ何でしょうか。これは、今まで我々の先祖たちが願ってきた願いでした。数多くの男性たちが願ってきた願いであり、数多くの女性たちが願ってきた所願でした。ですからもし、この地上にこのような男性と女性が合わさり、一つの家庭を成していたならば、天地が公認できる核心存在になったのです。そのような男性と女性が天情と共に、新しい世界へと門を開けて出ることのできるその時が、まさに我々が所望した天国が出発する時なのです。そうしてこそ、そこから天地の終わりの日が来るのであり、人類が願っていた目的と希望の一つの定着点が生じるのです。

 その時になれば、一人で主張する時代はすっかり過ぎていくようになります。「私が一番だ」と言うことのできない時代です。その時からは共同世界です。すなわち、共生共栄共義主義の世界です。ですから、統一教会で共生である、共栄である、共義であるということを主張するのです。その世界は、一人で成すのではありません。分かりますか。(二四―二九八)

 共生共栄共義主義世界は、人類が願ってきた理想天国の世界です。その世界は、絶対に一人では成すことのできない世界です。ですからその世界は、一人だけでいる世界ではありません。「私」と言えば、必ず相対がいるのであり、また家庭があるのです。これは観念としてのみ終わるのではなくて、実生活において作用しなければなりません。生活舞台においてそれを実際に表現できる世界が、まさに天国の世界です。そうではないですか。

 皆さん、左目と右目の歩調が合いますか、合いませんか。これは共栄です。すべてが一つの目的のために生きていくのです。全部がこのようになっています。鼻の穴も二つですが、一つの鼻の穴が詰まればよいですか、悪いですか。

 同様に、耳も一つがふさがればよいですか、悪いですか。病身がよいですか、悪いですか。脚を切ってしまうとか、腕を切ってみなさい。気分が悪いでしょう。ですから、相対的関係を備えたすべての存在物は、自ら天地を証明するのです。すなわち、人間が自ら証明しているのです。このように心は分かっているのです。人心が天心であるという言葉も、ここに関係するのです。

 父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、このようなものは西洋思想にありません。ですから、心情的な面においては、東洋思想が西洋思想より一段階高いのです。そして、その土台から共生共栄共義主義を主張するのが統一教会です。ですから、このような観点を離れては、「私」という者は存在することはできないのです。絶対、一人では勝利できないのです。これは、皆さん自身がよく分かっていることです。

 では、皆さんに教会のために生きなさいと言うのは何のためですか。より大きくするためです。家庭で大将になろうということでよいですか。教会のために生きるということは、私がもっと大きくなるためであり、国のために生きることも私がもっと大きくなるためであり、世界のために生きることも私がもっと大きくなるためです。どれくらい大きくなるためか、最高に大きくなるためです。ここで大きいというのは、体積をいうのではなくて、内外の最高の円満さと円熟さを備えることをいいます。皆さんは、そのような立場で統一教会を中心として、世界水準の舞台で万民と共に生きようという人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造された神様の息子、娘になれるのです。このような観点から、行かなければならない私の道が残っているということを、皆さん全員が知らなければなりません。

 この道の出発点は、統一教会がつかんでいます。今は、既に出発したので、目的点に行ってとどまる皆さん自身にならなければなりません。ですから、「国のために伝道せよ。世界の宣教師になりなさい、そして天地のために共産党なら共産党と戦いなさい」と言うのです。このような観点から、皆さんが自分自身の価値をよく知って、今日神様が願われる立場で生きていくことを願います。(二四―三〇〇)

6 統一思想は最後に残る思想

 最後に残る思想が何ですか。結論をつけましょう。世界のためには、自己の国や民よりも世界をもっと愛することのできる運動、神様をもっと愛することのできる運動だけが、最後に残ることのできる主義となるのであり、思想となるでしょう。ですから、その国を越えることのできる超民族的な運動を世界的に提示して、超民族的に天が愛することのできる立場を、あるいは世界人が愛することのできる立場を自由に行くことができるように、どのように模索するかという主義だけが問題となるのです。(五三―二四)

 我々統一教会とは、どのようなところかということを、もう一度全体的に調べてみましょう。統一教会は歴史的な因縁をもっていますが、統一教会の内容を調べれば、今まで宗教世界であるいは文化世界で見つけることのできなかった真理をもっています。歴史時代において、我々だけがもっていると自負できる、歴史と共に自慢できる一つの真理をもっています。

 今まで、歴史は何を探してきたのでしょうか。歴史が今まであえぎながら探してきたものが何かと言えば、真の真理のある所、真理の世界を探してきたのです。真理のある所、真理の世界を探そうとすれば、真理を身代わりし、真理の世界を成すことのできる、真理を基盤としたある思想体系が必要です。我々はそれをもっています。それこそ、絶対的な真理をもっているということなのです。

 この真理が現れたところには、天が一緒にあられ、この真理が行くところには敵はないのです。この真理こそ最後の宣言であり、最後の審判の表現です。(六四―二五四)

 将来、この世界を引き継ぐことのできる、主義、思想は何ですか。自己の国家を犠牲にしても、世界を救おうという主義思想です。そのような思想をもった国、そのような新しい運動を中心とした国家と国民が登場するようになる時、この世の中には新しい希望の世界が顕現するでしょう。そこから、新しい統一の世界、理想世界は顕現するでしょう。国を越えることのできない国家観、歴史観は、神様の理想世界を引き継ぐことができないのです。(五一―四四)

 一つの目的に帰一させることのできる思想は何ですか。それは、自己を主とした世界観ではありません。万国を主とする世界観です。これが、一つの目的に帰結させることのできる思想です。これは世界と分離した立場で自己の宗族を誇る思想ではなく、人間自体のための思想です。人間であれば、誰でもそのような思想によって成された世界を願っているのです。(三六―一七五)

 統一教会の思想は、人類が滅んでも、今までの歴史が変わっても、いずれにせよ人類がもたなければならないものであり、私個人が滅び、私の家庭が滅んでも、この思想は残さなければならないということも妥当であると見るのです。(七九―二二六)

 民主主義世界に向かって越えていく障壁の前で国家主義に陥り、越えていくことができなかったので、気の小さい男の末路になりました。共産主義もそうです。国際共産主義を否定して、今、国家的共産主義に落ちました。これが将来、氏族、宗族的共産主義に落ちるようになるのです。教条主義という言葉がよく出てくるのを見ればそうです。

 世界的な理念の障壁を崩してしまい、世界のために自己の民族を犠牲にして原肥を作ることのできる主義が現れれば、その主義がまさに神主義です。ですから神様は、世界のために一番近い息子、娘を犠牲にさせるのです。そのような理由で、今までキリスト教が血の祭壇を積んできたのです。神様は一番近い人を犠牲にして、世界を愛することができる起源を備えてこられたために、結局は神主義だけが残るのです。(二六―二三六)