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神様をじっと見れば、神様にも体があり、心があるのでしょうか。どうですか。その方は我々人間に似たゆえに、神様もあるべきものはみなあります。むしろ我々よりもっとたくさんもつべきでしょう。より完全なものをもたなければならないゆえに、神様も心があり、体があるというのです。
さて、それではその神様に心と体があるならば、神様の心と体が闘うのでしょうか。夜昼なく闘うかというのです。闘うか、そうでなければ完全に一つになって喜ぶのでしょうか。どのように考えますか。神様の心と体があるならば闘わなければならないでしょう。なぜですか。我々人間に似たからです。私に似たからです。(笑い)それを考えてみましたか。なぜ神様の心と体が闘わなければならないのでしょうか。私に似たから神様の心と体が闘わなければならない、そのように結論づけるようになれば……。皆さん、なぜ笑いますか。気分がよくて笑いますか、よくなくて笑いますか。不思議で笑うのです。
それゆえ、神様が人間に似たけれど人間と違う点は何でしょうか。神様も心があり体があるけれども、神様の心と体は絶対闘わず完全統一だというのです。一つなのです。それがそうできなければ、神様がこの世界をつくられる時、身体が喜ぶ世界をつくられたのであり、心が喜ぶ世界をつくられたのです。そのようになれば、神様が二つの目的の世界を創造されたという結果になるために、そのような神様は絶対的であり得ないというのです。これは理論的に……。
それゆえ、神様において体と心は絶対に闘いません。さて、このように体と心が一つになった神様ならば、体の目的と心の目的が二つ合わさって二重性のそのような内容の構成を備えた、一つの目的観をもっている神様ならば、彼が願い、彼が好む物もそのように自分に似たものでなくてはならないのです。(七〇―四七)
もし神様が二つの目的をもった人を造ったならば、その神様は論理的な神様ではありません。この地上に存在するものの中で目的なしに存在するものがないように、二つの目的をもっては生きることができないのです。二つの目的を同時にもっては存在できず滅びるようになります。(一八―三一九)
今日の我々は存在物であることに間違いありません。皆さんが存在物であることに間違いない限り、皆さんは相対的観念を抜け出すことができません。それゆえ、主体と対象の関係において、縦的主体と横的主体がなければなりません。こうしてこそ理想が展開するのです。こういうことを皆さんが知らなければなりません。
今日幸福や理想というものは、より優れた結果的な存在が形成されてこそ成立するのです。その結果的な存在というのは何でしょうか。個人も結果的な存在であり、家庭も家庭として結果的な存在です。あるいは社会も社会として、その国も国として結果的な存在です。その結果の追求することが、二つの世界になることはできないのです。その世界は一つにならなければならないのです。
もし二つの世界を追求する主体がいるならば、その主体は頭が二つでなければならないのです。そのような主体は絶対的な存在になることはできません。原因的な主体が二つの結果を追求するならば、それは絶対的な存在ではありません。絶対的というのはただ一つです。完全な起源というのは二つではありません。一つを言います。それゆえ、一つの起源から始まった結果の世界は、必然的に一つでなければならないのです。これは不可避なことです。否定できないのです。(五九―七九)
皆さん自身は一つですか、二つですか。二人ですか、一人ですか。(一つです)。うそです、うそ! 心はこのように行こうというのに、体は「ああ、私は嫌だ、このように行こう」と言うでしょう? 形は一つのようなのに内容は二つです。皆さんはそれを知らなければなりません。
それでは、誰がこのように造っておいたのでしょうか。絶対的な神様がいたずらをするためにそのように造ったのならば、そのような神様は狂った神様です。そうではないですか。神様がそのように造ったとするならば、神様はいないのです。これは二元論とか何とかという複雑な思想をもっても、今まで解決できずにいる問題です。そうでしょう?
絶対的な神様がいて、その神様の思想を中心として東に行く人がいるならば、その人は絶対的な一つの目的を成し遂げるためのものとして帰結されなければならず、西に行く人がいるとしても、それもまた、絶対的な一つの目的を成し遂げるためのものとして帰結されなければならないのです。
ところで我々自体を見ると、東西の方向のように、反対になる体の人と心の人がいます。(四七―二二)
我々人間の始祖が堕落することにより、人間は善と悪の中間位置に置かれるようになりました。
ですから善なる人にもなることができ、悪い人にもなることができるのです。一歩右側に行けば善なる人になることができるのであり、一歩左側に行けば悪い人になることができるのです。このように相反した二人の主人から相反した二つの目的に支配を受ける、我々個人個人であることを皆さんは知らなければなりません。
「私」という存在を置いて見ると、私自体も私一人を中心として、思いどおりにできる自分になることができずにいます。自分自らの一念で年頭には一年ならば一年間、このようにしなければならないと誓いますが、願うその志は成し遂げられず、願わないことをより多くするようになることを、我々は日常生活で見るようになります。それで一年が過ぎ去ってから回想してみれば、その一年の中には後悔される時が多いことを感じるようになります。
それはなぜでしょうか。私が願う所へ行かないで願わない所へ行くようになるのは何ゆえでしょうか。それは私が願う所へ行くように引っ張ってくれる力よりも願わない所に引っ張る、より強い力があるためです。そのようなものを皆さんが知らなければなりません。すなわち、「私」という個体は善と悪の中間位置に置かれているのです。善と悪の中間の立場に立っているというのです。それゆえ、私の個体は善の支配も受けるのであり、悪の支配も受けるのです。この二つの分岐線が皆さんの個体を中心として、連結されていることを知らなければなりません。
ここで皆さんが考えなければならないのは、絶対的な神様が人間を造ったがゆえに、人間は完全に一つの目的を指向しなければならないということです。絶対的な神様の目的は二つになることができません。絶対的な神様が万物を造られたならば、すべての万物は大宇宙の目的を中心として、そこに和合するように計画して造られたのです。それゆえ存在する目的が二つになることはできないのです。一つにならなければなりません。(四一―五八)