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1 ひとり子イエス様の誕生
イエス様がお生まれになる当時、ユダヤ民族は、教団を形成して、国家と教会が一つになり得る時を望まれ、ローマ帝国に立ち向かうことのできる植民地国家圏内にいました。その時初めて、神様はイエス様を誕生させたのです。
イエス様を誕生させる時にも、マリヤは自分の父母と夫に許されない道を行きました。皆さんは、どうしてマリヤがそのような働きをしたのかということを考えてみましたか。これはエバが、神様(父親)とアダム(夫)を否定して堕落し、アダムを失ってしまったことにより、目には目を、歯には歯を、耳には耳によって蕩減する(償う)法則によって、サタンに奪われた息子を神様が奪ってこられた役事なのです。
マリヤはヨセフと婚約した間柄でした。すなわち、彼らはちょうどアダムとエバが婚約状態にあったのと全く同じ立場にいたのです。ですから、マリヤはエバがアダムとの婚約時代、すなわち、神様の愛と一致することのできる結婚の日を前にして堕落したのを蕩減復帰する立場で、父母と夫をだます冒険の道を行ったのです。すなわち、エバが堕落したのと反対の道を行ったのです。
イスラエル民族の律法で、女性が姦淫すれば石で打たれて死ぬようになっています。それにもかかわらず、マリヤは神様のみ旨のために自分を祭物として捧げる覚悟をし、ヨセフと約婚したことを否定する立場でイエス様を懐胎したという事実を、皆さんは知らなければなりません。そうして、イエス様がマリヤの腹中で懐胎されたその瞬間から、サタンがイエス様を指さして自分の愛の因縁が残っている息子だと主張できる条件が成立しなかったというのです。
タマルの役事、イスラエル民族の歴史を通して蕩減された基台の上で懐胎されたので、サタンは自分の愛の因縁が残っていると主張できませんでした。ですから、初めて新しい神様の念願の息子が顕現できたのです。イエス様は、腹中で懐胎されたその瞬間から神様の息子でした。ですから、神様の愛の中で生まれることによってひとり子という言葉が成立したのです。イエス様のように、このように堕落の血統が歴史的に蕩減され、復帰された基盤の上に生まれた聖人は一人もいなかったのです。
ですから、イエス様は聖賢の中の聖賢だという事実を皆さんは知らなければなりません。そのままむやみに信じてはなりません。無知な者に完成というものはあり得ません。み旨を知りながら成し遂げようとしたとしても、成就するのは難しいのです。全知全能であられる神様がみ旨を設定されたにもかかわらず、アダムとエバは堕落しました。皆さんは無知な立場にそのままとどまっていながら、み旨を成し遂げることができると考えますか。とんでもないことです。(一九八一・五・一四)
イエス様を懐胎したマリヤはエバの立場であり、リベカとタマルの立場でした。マリヤは夫をだまし、自分の 舅 、 姑 をだまし、父親をだましました。そして、どうしましたか。イエス様を懐胎しました。このようなマリヤの立場は、エバがアダムと神様を否定して天使長と関係を結んだのを、腹中懐胎で神側に立って蕩減するためのものでした。このなぞなぞのような問題の糸口をレバレンド・ムーンが適当に、思いつくままにくっつけるのではありません。この日まで人間世界を救援するために摂理してこられた、天の父の愛と心情を尋ね求めて知った事実です。
イエス様の腹中懐胎については、キリスト教社会で論争の多い問題でしたが、私がこのように明らかにしたので、おそらく皆さんはこれに対してとても気がかりなことと思います。イエス様はどのようなお方ですか。人間の息子ですか、神様の息子ですか。
ここではっきりと言うことができるのは、イエス様は、長子と次子の分立役事をすべて蕩減した基盤の上にいたので、懐胎されて腹中にいるときから神様の息子になることができたということです。いわば、イエス様は腹中で十カ月が過ぎ、この世の中に生まれるときから既に神様の聖別された息子だったというのです。この事実を、皆さんははっきりと知らなければなりません。(一九八〇・一一・一八)
2 ひとり子としてのイエス様の族譜(家系図)
新約聖書のマタイによる福音書は、旧約聖書の創世記に相当します。ですから、天地創造の時に起こった人間の堕落が創世記に記録されていますが、その復帰路程がマタイによる福音書に記録されているのです。
マタイによる福音書には、アブラハムからイエス様までの継代歴史が出てきます。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と、第一章一節から出てきます。三節を見れば、「ユダはタマルによるパレスとザラとの父」と記録されているのですが、どうして、ふと見れば不倫な女性のようであるタマルを最初の部分に記録したのでしょうか。また、「ボアズはルツによるオベデの父」と記録されており、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり」と記録されています。
それから十六節に、「マリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった」とされています。しかし、どうして人倫道徳から見ても不敬であり、許されざる事実をマタイの福音書に記録したのでしょうか。私はマタイによる福音書の記者であるマタイが、イエス様誕生の背後を知っていたと考えます。しかし、考えてみただけでも気分の悪い事件まで、なぜ聖書歴史としてつづっておいたのでしょうか。皆さんはこのことを知らなければなりません。この事件でなくても一般の人たちが理解できなかった悲運の歴史がたくさん入っているのですが、我々はこれを掘り下げて調べ、キリスト教の伝統をはっきりと立てておかなければなりません。そうしなければ、キリスト教はばらばらに分かれ、サタンの祭物として消えてしまうということを皆さんは知らなければなりません。
イエス・キリストはこのような蕩減歴史を経て、マリヤという女性を通して誕生しました。マリヤは歴史的な恨みを解くことのできる国家的中心女性として召命され、神様のみ旨のために生死を意に介さない信仰で、イエス・キリストを懐胎することができたということを知らなければなりません。
そうして四千年のユダヤ民族史、ユダヤ教の歴史を経ながら神様が何を求められたのかといえば、堕落する前の血統、汚されていない息子、すなわち、アダムを復帰したのです。ですから、コリント人への第一の手紙の第十五章四十五節に、イエス様を「最後のアダム」といったのです。この「最後のアダム」という言葉は、神様の救援摂理歴史は復帰摂理歴史であり、再創造歴史なので、神様が四千年間苦労されながら人間が理解できない復帰の道を開拓してきて、初めて神様の愛を受けることのできる息子の立場を復帰した「ひとり子イエス様」だということです。このような話は初めて聞くでしょう?(一九八一・五・一四)
3 メシヤの使命とイエス様の立場
メシヤはまさに神様と人間、そして万物が願ってきた真なる人です。それゆえ、そのお方は愛の化身体として来られ、神様の愛と一致した立場で真理を語られます。真なる行動をし、愛を動機として行動する人です。彼の生活は規制に従って形式的に生きるのではなく、神様の真なる愛を基準にして生きていくのです。世の中を救うにも、世俗的な戦略と手段、方法によってではなく、神様の真なる愛を中心にしてこの世の中を救おうとするお方です。そのようなお方がまさにメシヤです。
このような一個人から、真なる愛の運動が全世界へと展開するのです。この真なる一個人が、一人の女性と夫婦の因縁を結んで一つの家庭を築き、この家庭を中心として一つの氏族と民族、国家、そして、一つの世界を築くようになるのです。これが神様が願い、人類と万物が願っている「全体の希望」だというのです。
二千年前、イエス・キリストがこのようなメシヤ思想をもってこの地に来られましたが、不運にもそのお方はその使命を果たすことができませんでした。もちろん、そのお方がこの地に来られて、真なる神様の愛を中心として愛の運動を展開した最初の神様の真の息子になったかもしれませんが、メシヤ的な愛を中心として、個人的な人格を完成した土台の上で真なる愛を中心とした家庭を築いたのか、また、そのような家庭を基本として一つの真なる民族と国家、世界を築いたのかというとき、我々はこの事実を否認せざるを得ないのです。今日、キリスト教を信じる人たちはこの言葉に反発するかもしれませんが、これは誰も否認することのできない歴史的な事実です。
イエス様は個性完成をした立場にいるにもかかわらず、一人の主体的な男性として新婦たる一人の女性を迎え、家庭的な次元の神様の愛の伝統を残すことのできなかった不運なお方でした。それゆえ、今までこの地上に神様の真の愛を中心として築かれた家庭は一家庭も現れることができなかったのです。メシヤの権威の上で築かれた真なる夫婦の愛、神様が公認することのできる真なる父母の愛と真なる父子の愛の伝統が成立しませんでした。もし、このような家庭が築かれたなら自動的に歴史の過程を通じ、この家庭を求心点として横的に、あるいは縦的に発展して、神様の愛を中心とした氏族と民族、国家、ひいては神様の愛を中心とした一つの世界の成立が可能だったのです。しかし、我々が知っているとおり、イエス様ご自身が神様の真の愛を中心とした家庭の伝統を立てておくことができなかったので、神様が喜ぶことができ、全人類と万物が喜ぶことのできる中心的な基盤が築かれ得なかったのです。神様の愛を土台とした一つの家庭が築かれなかったので、神様の愛を基本とした真なる氏族の基盤が築かれ得なかったのであり、真なる民族的・国家的基盤が築かれなかったのであり、真なる一つの世界が築かれ得なかったのです。(一九八一・五・一〇)
4 聖霊はどのようなお方か
神様のみ旨とは何かといえば、男性の完成基準と女性の完成基準を立てておき、アダムとエバが神様の愛を中心として神様の家庭を築くことでした。
ところが、神様の家庭が築かれたでしょうか。神様の家庭は築かれませんでした。イエス様はこのような神様のみ旨を知り、また信じました。しかし、ユダヤ教とイスラエル民族の不信によって、イエス様のためのイスラエル民族の四千年歴史の基盤とユダヤ教が倒れ、イエス様は十字架で悲惨にも亡くなられました。このような胸の詰まるようなイエス様の事情を、今まで誰が分かったでしょうか。誰も分かりませんでした。
きょう、この文という人がこのような話をしてあげるので、皆さんは分かるようになったのです。これが事実なら、イエス様がどれくらいお喜びになるでしょうか。
新郎であられるイエス様は、新婦であられる真の母を探し立てておかなければ、神様の家庭完成は不可能です。イエス様の家庭が築かれない限り、神様のみ旨は永遠に成し遂げられないのです。
ですから、イエス様が亡くなられた後、五旬節に屋根裏部屋で二百名の聖徒が集まって祈祷するとき聖霊が降臨したのですが、この聖霊が誰かといえば、母神です。イエス様を父とするなら、聖霊は母神なのです。夫を最もよく知る人はその夫人であり、夫と完全に通じることができる人は夫人しかいません。
では、具体的に聖霊はどのようなお方でしょうか。エバがもし完成していたなら、実体の母となっていたはずですが、堕落することによってエバの霊性が神様に収められました。そうして、その霊性はイエス様がこの地上で新婦を迎えればその新婦に再臨して実体の形象をまとおうとしたのですが、イエス様の新婦の基盤がなくなることによってその霊性は再臨できず、イエス様は実体の父母の立場に立つことができませんでした。ですから、仕方なくイエス様は聖霊と共に霊的父母の立場になるしかなかったのです。そうでなければみ旨を率いていくことのできる基盤も残すことができなかったのです。
ですから、今日のキリスト教を信じる人は、聖霊を受けなければならないといいます。なぜ、聖霊を受けなければなりませんか。女性(エバ)、すなわち、夫人が罪を犯したので、女性が出産の苦労をしなければなりません。ですから聖霊が役事しているのです。また救いを受けるためには、イエス様の愛と共に聖霊の愛を受けなければならないので、キリスト教徒は聖霊を受けなければならないというのです。(一九八一・五・一四)
5 真の父母を通した霊肉復帰
二千年前イエス様は後のアダムとして来られました。イエス様は人類を救援すべきメシヤとして真の父の使命をもって来られました。しかし、イエス様が十字架にかけられて亡くなられたので、肉身をもった真の父母が顕現できませんでした。その結果、霊的救援(救い)は成し遂げられましたが、肉的救援は実現されなかったのです。結局今日まで霊肉を共に救援してくれる真の父母がいませんでした。
それゆえ、我々は真の父母の資格を備えてこられる再臨主によって霊肉が共に生まれ変わらなければなりません。我々は条件的、あるいは、象徴的に母親の胎内から新しい生命として生まれなければならず、そのための道を我々は歩んでいるのです。今日まで聖霊は母親の役割をしてきました。我々は母親である聖霊を通して、父親、すなわち、イエス様の霊を通して新しく生まれなければなりません。
もちろん我々は母親の胎内から生まれたのですが、もっと深くさかのぼって考えてみれば、生命の起源は父親から出発するのです。母親の胎内までさかのぼっていくことによって血統は交差して復帰されましたが、いまだに父親を迎えることはできませんでした。そのような理由で、今日までクリスチャンは母親の霊である聖霊の力によって生命の起源である父親、すなわちキリストのそばに帰っていくことを願い、その再臨を待ってきたのです。堕落する前に既に息子と娘の生命はすべて、父親であるアダムの体の中で一つの種として存在しました。息子や娘となる種は父親の体の中にあるのです。
このように根本的に考えてみれば、我々は霊肉が共に生まれなければなりません。それゆえ、我々は霊肉が共に再出発するために種の立場にまで戻らなければならないのです。
その摂理を成就するために、イエス様は真の父母として来られなければなりません。それゆえ、我々は再臨主を通して一つの新しい復帰された生命として生まれなければならないのです。皆さんは先生が今まで語った内容を総合してみるとき、再臨する主、新しいメシヤが必要なのか、必要でないのか、はっきりと分かるようになるのです。
イエス様はニコデモに、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。これに対してニコデモは「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と反問しました。そうするとイエス様は再び、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」(ヨハネ三・2〜10)と言いました。この時イエス様は真にこの原理を語っていたのです。
キリスト教においての復活と新しい生命という言葉は、すべてこのような方法を意味しています。すなわち、復帰は結局、母親を通して成されるのです。原罪は清算され、汚された血統は天の血統に復帰されるのです。
しかし、我々が完全な新しい生命として再創造されて根本的に再び生まれるのは、真の父の体を通してのみ成されるようになります。真の父によってのみ、霊肉共に救われる完全な救いが可能になるのです。このようにして誕生した我々の子女は原罪がないので、救いの過程を通さずに天国に行くようになります。
皆さんは、復帰というものがどれくらい難しい過程を経なければならないのかを知らなければなりません。先生は真理を発見するのみならず、その真理の全部を成就しなければなりません。今、先生はそれを皆さんに無償で教えているのです。皆さんはまるで何もせずに卒業証書をもらう学生のようです。それゆえ、皆さんの立場がどれくらい貴重で価値があるのかを知らなければなりません。(五五―一一七)
6 摂理の究極的目的は真の父母を地上に立てること
個人を連結したのが社会、国家、世界です。それゆえ、人間たちを解放するためには個人の解放運動から始めなければなりません。家庭解放の鍵も個人にあります。国家を解放し、世界を解放する運動も結局個々人が一つになって、そのような運動をしなければなりません。これを目標にして、神様は宗教という機関をつくり、神様の摂理の方向に近づくようにしてこられました。
では、摂理の究極的目的は何ですか。今まで人々は一般的に世の中のために献身したり、世の中のために利益となることを遂行するのが宗教の使命だと考えてきました。宗教人自身もそのように考えてきました。
しかし、神様が宗教をお立てになったみ旨的立場で見るとき、世の中に向かって善行を施すことは第二次的な目的であり、第一次的な目的は真の父母を地上に立てることです。悪なる父母から生まれた人を完全に蕩減して勝利するためには、善なる父母から生まれた人をどのように立てるのかというのが、神様の立場で解決しなければならない重大な問題です。
罪悪世界は個人から始まって家庭、氏族、民族、国家、世界へと拡大してきました。神様もそのような基台をつくっていくためには天使長圏、あるいは、僕圏を広げて、次第に養子圏、実子圏にまで広げていかなければなりません。実子圏内にもカイン、アベルがいます。堕落した父母によって生まれたカイン、アベルはお互いに争って離れていきました。カイン、アベルが完全に一つになったという基準を立てなければ堕落圏を乗り越えることができません。堕落圏は実体基台を立てることによって初めて克服することができます。そのようにして完成基準に入っていったとしても、サタンから受け継いだ血統的な原罪はいまだに清算されない状態なのです。
原罪を清算するためには、必ずメシヤが必要です。それゆえ、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台は、堕落した人間にとって絶対に必要なものです。最後の問題は、メシヤのための基台を造成して彼を迎えて、自分の血統転換を成し遂げなければならないのです。そうして、神様の真の子女の立場に立てられなければなりません。アダムとエバが堕落したので、カインとアベルが縦的に一つになる道がなくなりました。アダムとエバが堕落したことをカインとアベルを通して復帰する立場に立っているので、アダムとエバも縦的に結ばれる基準がありません。
それゆえ、神様の真の子女圏を願っている我々においては、それを縦的に結んでくれる真の父母に出会わなければなりません。堕落しなかった子女の立場を復帰できなければ、神様と一つになって完成の基準を上がっていくことができません。どんなに神様をよく信じているとしても、どんなにカインとアベルが一つになったとしても、堕落しなかった父母の基台を復帰しなければ縦的に上がっていく道は生まれません。
この問題を解決するためには、神様が真の父母という基準を再び立ててくださらなければならないのです。(五五―一三五)