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五)真の父母は何か

@ 二つの石板と真の父母

イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱があったでしょう? 昼に導くのが雲の柱で、夜に導くのが火の柱でした。それは何を意味するか? 男女を代表して終わりの日に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、皆滅亡するのです。

また、イスラエル民族が荒野に出て四〇年さすらい、方向をつかめないので滅亡するのを心配して、モーセをシナイ山に呼び上げて、四〇日断食をさせて与えた二つの石板が何かというと、アダム・エバ、真の父母を象徴したという事実を知るべきなのです。

契約の箱の中にどうして二つの石板を入れたかというと、二つの石板は、神様のみ旨を終結することができる中心本部としてアダム・エバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。(一三四\一七四)

我々の願いが何か? 神様は縦的な父母であり、アダム・エバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜びうる場で、愛されうる息子娘になるのです。ところで、そのようにできなかったのが恨です。そうでしょう? そのような愛を一度受けてみたらという熱望を皆持っているというのです。宗教も全部そのようなものです。

縦的な神様と横的な面で一つになって、愛することのできる父母がこの地上にいたか? いませんでした。堕落したために偽りの父母になりました。偽りの父母になったために、そのような父母がいませんでした。それで、真の父母が出て来なければならなりません。真の父母が歴史上に出て来なければなりません。

そのような歴史的指名を代行する一つの名詞を被せて呼ぶその存在が誰か? これが救世主という存在であり、メシアという存在です。救ってあげるには、何を救ってあげるか? 体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。

そうするには、どのようにしなければならないか? その救いを成してあげるには、メシアはどんな存在として来なければならないか? 間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシアは、真の父母として来なければなりません。イエスという方を、キリスト教ではメシアと信ずるのです。救世主として信じます。

真の父母として来るには、どのように来なければならないか? 一人ではだめなのです。真なる父に代わりうる一人の男として出てこなければならないのです。今まで、数多くの宗教は、一人の男を探してきたのです。男の中でも、生活をよくする男を探してきたのが、儒教の教えと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが、仏教の教えと見ることができるのです。

では、キリスト教は何か? 神様の息子になって、愛する家庭を作ろうというのです。もっと具体的な内容を持って来たのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子」だとイエス様が言われたのです。

ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたら大変なことです。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに好む場で結婚しなければならないのです。結婚して、神様が縦的な父母として喜び、横的な父母として喜びうる新郎新婦になり、地上で息子娘を産まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。そういうことではないですか?

それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでもいちばん必要としたのがありますが、それが何か? 再び探しうる主体的動機が何か? まさに女です。男の前に女がなくてはいけません。

イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら「私は新郎であり、あなたがたは新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では二千年間新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうと、もがいてきているのです。

その標準が何か? それがメシアですが、真なる父母の位置を持って合わせるのです。それが子羊の婚宴です、子羊の婚宴。(五八\二一八)