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五 還故郷は人生の目的地

1 人生は還故郷路程

 私たちすべての人間が探し求めていくものとは何でしょうか? 本然の世界、真に満ちた人間の姿を探し求めていくのです。そうしようとするならば、真に満ちたおじいさんである神様と、真に満ちた父母に会わなければなりません。そうしなければ真に満ちた人間を探し求めていくことができないのです。そのような家庭になるとき、初めて私たちが安息することができるのです。何を中心としてでしょうか?

 愛を中心としてです。愛を中心とした真に満ちたおじいさんおばあさん、真に満ちた父母、真に満ちた子供でなくしては安息する所がないと、このように見るのですね。それが故郷を訪ねて行く道だと、このように見るのです。人生は、故郷を訪ねていく路程です。(一九八二・一二・五、アメリカ)

 故郷というものは、その何だか分からないままに恋しさを呼び起こすものです。旅行をすれば、眠る部屋が毎日変わるのですが、眠っていて水を飲みたくなれば、眠った部屋が違うにもかかわらず、きのう眠っていた所の水道がある方向に行くようになります。そうしていて、じっと考えるならば、きのう眠っていた所ではないのですね。このように違った環境にぶつかるたびに、ついつい思い出されるのが故郷です。故郷の、そのすべてが、いかばかり切実なものか分かりません。ですから、旅行する人たちは、いつも故郷を忘れることができないのです。

 堕落した人類は、故郷を探し求めていく運命にある旅人の立場です。ですから、どこにも情を移すことができません。もし、どこかに情を移すことができるならば、帰っていくことができないのです。今日、私たちは、旅人と同じ立場にいるので、いずれ帰らなければなりません。帰っていくには故郷において足しになることのできる何か、故郷に行って誇ることができ、残しておくことのできる何かを持っていかなければなりません。それを探し求めようと努力してから故郷に行ってこそ、本当に故郷の味を知ることができるのです。しかし、故郷に対して無関心に過ごすならば、故郷に行くとしても故郷の味が分かりません。(一九六九・五・一一、前本部教会)

 どっちみち人間は、自分の家で住んでから、故郷に帰るようになっているのです。世の中の故郷もあるのですね? 世の中の故郷もありますけれども、それよりも本然の故郷に、永遠な故郷に帰るようになるとき、そこで歓迎を受けることのできる内容を整えられないとき、悲惨なのです。(一九九一・一・二〇、本部教会)

2 救援の条件――還故郷

 故郷に行くことのできない人たちが、故郷に行くことができるという言葉を聞くだけで目を閉じて死ぬことができるのですが、故郷に行く車を示しておき、車に乗ることができる時代が来たと話してみなさい。その人たちは郷愁で胸がいっぱいになるのです。

 このように、数十年締めつけられていたこの恨みの峠を越えるというとき、故郷をみな、訪れるのです。懐かしかったものをもう一度訪ねて、二度と故郷を抜け出すような自分の一族になるまいと思わなければなりません。その基台にすがり万年天国を成して、後孫の前に引き継ぎしてあげるというその心を抱いていくとき、祖先がそこに感動するのであり、そこに住む人たちが感動するのです。後孫と子女たちはもちろん、故郷の山河のすべてのものも「早く来なさい、いらっしゃいませ」と歓迎するのです。そのようなことを知って還故郷できるのですから、先走者にならなければなりません。先走者になりますか? 後走者になりますか? 「先走者」というときの「せん」は何の字ですか? (先という先の字です)。「そう」という字は? (走るという走の字です)。駆け足の走、まず走っていくのです。「先走者」になるのです。「後走者」になるのですか? (先走者になります)。それでは先走者になるという人、手を挙げてみなさい。

 さあ、私がここから始めるならば、一挙にスルスルとオートバイに乗っていくように行くのですか? 会社にいた人、包みであれ何であれ、火で燃やしてしまい、邪魔になるものは片づけなければなりません。未練なくさっと出発しなければなりません。エジプトを立ち去る時に、そこで判事をしていたならば何をし、金塊があるならば何をしますか? 座り込んで、それをしていては先に死ぬのです。捕らえられて死にます。それゆえにこの時間に、みな解任です。皆さん、統一教会に入ってくる時に、就職しに入ってきましたか? 就職しに入ってきましたか、救いを受けに入ってきましたか? (救いを受けに入ってきました)。救いを受けることとは何ですか? 還故郷ではありませんか? 救いを受けることとは何ですって? (還故郷です)。還故郷です。今や皆さんの故郷が天の国になるのです。天地に対して誓うのです。(一九九一・八・二九、国際研修院)