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1 真なる故郷
今日私たちは、還故郷、真なる故郷へ帰らなければならないのですが、故郷とはどこですか? 真なる故郷とは、愛がある所です。故郷は、私の動脈の血が歴史と共に動く所です。なぜでしょうか? 私が成長する時まで、その地方のすべての要素を吸収して大きくなったからです。私の細胞と共に、血と共に、心臓の鼓動と共に躍動する所です。愛の感情を抜くことができないほどに、深くしみ込んでいる所が故郷だというのです。
今や私たちは、どこへ行かなければならないのでしょうか? 故郷を探し求めていかなければなりません。故郷に行くとするならば、誰を訪ねていくのですか? 故郷に行く時は、誰を訪ねていこうとしますか? (真の御父母様を訪ねていきます)。世の中のできの悪い連中は、若い者たちは自分の妻の家を訪ねていこうとします。妻が故郷なのですか? 故郷を訪ねていくときは、父母の懐が恋しくて訪ねていくのです。
昔、幼いころ、物事の分別がつかない時、家の庭で子犬と遊んだり、春になれば黄色いヒヨコがピヨピヨ鳴き、その山川草木の自然と共に、家に配置されたすべてのものが私の心情的因縁と共に眠っている所が故郷というものなのですね。それらを見て呼ぶ声が何かといえば、「うちの子犬」と言うのではありません。「愛するお母さん」とそう言うのです。昔のように子犬が尾を振って出てくるのを見たとき、「お母さん!」とこのように呼ぶというのです。昔、そのような子犬を愛したように、お母さんの懐がもっと良いのです。お父さん、お母さんを呼んでから、その次には自分の嫁さん、新郎を呼ぶのです。(一九八八・五・一一、清州教会)
私たちが「真なる故郷」と言う前には、この地球にはまだ真なる故郷が生まれなかったというのです。宗教的に見るならばそうだというのです。真なる故郷は生まれませんでした。真なる故郷には誰がいなければならないのかといえば、真なる父母がいなければならないのです。真なる故郷の家において主人にならなければならない方は、真の父母であり、その真なる父母はどのような人なのかといえば、真なる男と真なる女が真なる愛を大黒柱として結ばれた夫婦をいうのです。(一九八八・五・一七、釜山教会)
2 故郷に対する私たちの心
今日、宗教というものは、人々が故郷を追求するにおいて絶大なる貢献をしました。天国に行こう、あるいは理想世界に行こう、極楽世界に行こうというのですが、そのような所は私たちが生きるこのような所ではありません。私たちが永遠に生きることのできる本郷の地だというのです。まさしくこのような面において、宗教は本郷を追求するのに貢献をしたというのです。では、その所は、どのような所なのでしょうか? すべての条件が整えられている所です。心と体が少しも足りなさを感じない、完全無欠な所です。その所を人類は今、追求していっているのです。
けれども、どれだけ故郷に行くといっても、喜んでくれる人がいなければむなしいのです。もし、韓国人二世が外国で生まれ、祖国である韓国を訪れてきたのに、韓国語が分からなければ、それも気まずい思いをするのです。もちろん、故郷に行くことも良いのですが、まず、故郷にいる人たちと言葉が通じなければなりません。そして、うれしく迎えてくれる人がいなければなりません。自分を迎えてくれる人がいるということは、いかばかりありがたいことか分かりません。また、迎えてくれるその人が、自分が願っていた以上に迎えてくれるのか、あるいは、それ以下に迎えてくれるのかということが問題です。もし、願っていたそれ以上に迎えてくれるならば、祖国に対する印象も良くなるのです。それゆえに皆さんは、いつでも外国人に対するときは、注意しなければなりません。
その人たちは、韓国であるならば韓国、または、訪ねてみたいある国を訪ねていくときは、飛行機に乗るなど、自分の経費を使い何時間もかけ訪ねていきます。それゆえに、その訪ねてくる人たちに愛情を与えなければなりません。そうしてこそ、何度も訪ねてくるのです。その人たちがある国に到着するならば、まず何を先に感ずるようになるのかといえば、その国の国民性はどうかということです。そして彼らは、その国で自分が学ぶことは何であるのかを考えるのです。そのような心をもって回るのに、もし、道を尋ねるとか、あるいは、何かを買うとかというとき、人々が不親切であり、気持ち悪く対するならば、その国に対する彼らの印象がとても悪く記憶され、その国に来たことも後悔するようになるのです。二人の不親切な人に対されるだけで、とても気持ち悪くなるのです。その人たちが自分の国に帰れば、必ず自分が訪れてきたその国に対して良くない評価をするようになるのです。
このようなことを見るとき、自分が故郷や祖国を訪れるようになるとき、自分をうれしく迎えてくれる人がいて、自分の心を全部開いて相談することができるならば、彼は幸福な人です。反面、どれだけ祖国の地を訪ねていくとしても、迎えてくれる人がいなければ、彼は不幸な人です。まず、言葉が通じなければならないし、その次には、自分をうれしく迎えてくれることのできる人がどれだけいるのかということです。これが問題です。(一九六九・五・一一、前本部教会)
3 還故郷のみ旨
今や故郷に行って何をするのでしょうか? 故郷に行って何をしますか? 還故郷するにはどこに行くのかといえば、還故国ではありません。還故郷なのです。還故郷なのです。家へ帰るのです。自分の本来の家へ帰るのです。今日、人類歴史を考えてみるならば、還故郷の本来の家はどこでしょうか? アダム・エバと堕落したその家です。
還故郷とは何かといえば、堕落したアダム・エバを基準としたものではありません。今日、私たちがいう還故郷は、堕落しなかった本然的完成したアダム・エバの故郷をいうのです。そのアダム・エバの故郷が、今、私たちが行こうとする故郷が、神様の前に成就されたのですか、されなかったのですか? 堕落のゆえにされませんでした。蕩減復帰完成時代が来たので、できなかったことをつくるために還故郷するには、アダム・エバの堕落した以上の故郷の地に行くのです。そこには、神様がおられるのです。(一九九一・八・二九、国際研修院)
4 還故郷の背景
それでは、蕩減復帰路程においてメシヤが来てしなければならないこととは何でしょうか? 世界史的な蕩減基準を乗り越えた上で、アダムが堕落することにより神様の摂理の出発を見るようになっているのであって、アダムが堕落した以下で神様の摂理の出発を見ることができないのです。今まで故郷へ戻ることのできる道はアダムの堕落によりふさがれていたので、故郷へ戻ろうとするならば、アダムの代身者が来て、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界史的な蕩減条件でも設定しなければなりません。そうでなくしては、帰ることができないのです。(一九八八・六・一、本部教会)
真の愛の内的運動は、一〇〇を投入するならば一五〇が出てくるし、一〇〇〇を投入するならば一五〇〇が出てくるし、一万を投入するならば二万が出てくるように、大きく現れる真の愛の実績、存在実績、価値実績の内容が整えられました。ですから神様の真の愛の役事は、サタン世界も征服してきたというのです。このように見るとき、故郷を失った人たちの故郷に帰りたい心はいかばかり切実だろうかというのです。(一九九一・八・二九、国際研修院)
皆さんを故郷に送るのは、先生が長子権をみな復帰したからです。先生が一人で長子権を復帰して帰ってきたので送ったのです。それで故郷に見事に送りましたか、間違えて送りましたか? (見事に送られました)。皆さんを還故郷させて、先生も今や父母としてお出まししなければならないからです。(一九八九・一・三、漢南洞公館)
堕落によって天側が次子の悲しみの位置に立ったので、長子権を回復する業を人々にさせることも、神様が思いどおりにできないということを知らなければなりません。心が冷え冷えすることなのです。
この氏族を世界個人的長子権復帰、世界家庭的長子権復帰、世界氏族的長子権復帰、世界民族的長子権復帰、世界国家的長子権復帰、世界的長子権復帰をしてこそ、初めて本然の堕落しなかったエデンの園に、このサタンの讒訴圏を抜け出た、家庭出発が始まるのです。
これを見るならば、私たちはすべて失郷民です。失郷民が故郷を訪ねて帰っていくのに、このようにするとは夢にも知らなかったというのです。(一九八九・二・二六、本部教会)
今までは、サタンが故郷を占領して主人の振る舞いをしながら私たちを追い払ったのですが、今からは皆さんが故郷に行って、皆さんが(サタンを)追い払わなければならないのです。それは、自動的なのです。そのようになるならば、善なる霊たちが皆さんの故郷に来て守るのです。悪なる霊をみな打ってしまうのです。それが原理観です。
先生が監獄に六回も出入りしながらこの日を願っていたのです。世界に還故郷を宣布することのできるその時を眺めて出てきたというのです。先生の一生を振り返るならば、父母がみな霊界に行き、そのようなことを考えると心がふさがるのです。しかし、皆さんが故郷で皆さんの多くの親戚たちを私の父母、兄弟の代わりに解放すれることを考えながら、昔のことを忘れ、祝福してあげるのです。(一九八九・六・一五、イースト・ガーデン)
み旨から見るとき、キリスト教がアベルであり、アメリカがカインです。
南・北朝イスラエルがあったではありませんか? 北朝イスラエル十支派、南朝ユダ二支派にユダヤ教が分かれ、北朝全部が悪い業をしました。それで南朝二支派が彼らを救うためにありとあらゆることをしたのです。バアル神を崇め、アシラの木像を立てて退廃的な思想を中心としていたので、神様がどれだけ救おうとしても救うことができなかったというのです。それでエリヤを中心として、北朝イスラエルのすべての偶像たちを撤廃してしまったのです。
そうして生きておられる神様を見せるならば、ユダヤ支派全部が一致すると思いました。アベルに屈伏すると思ったのに、むしろ反対し、エリヤを捕らえて殺そうとしました。それでエリヤが、「私だけが残りました」と言って最後の祈りをするその時に、神様がエリヤに、「まだバアルに屈しない七〇〇〇の群れがいる」と言いました。残された七〇〇〇の群れを中心としてカイン圏復帰路程を展開させなければならないというのです。
ですから、先生はそれを探し求めようとしますから、七万名を中心として七〇〇〇名を韓国側にさっと接ぎ木しなければならないのです。イエス様の時代に七〇〇〇名さえいたならば、イエス様はなぜ死ぬでしょうか? カイン・アベルという核心的な内容を中心として、祭司長たちと書記官たち七〇〇〇名が一つになったならば、祭司長圏、カイン世界はアベル的イエス様の前に必ず和合することができたはずです。そのような運動を今しているのです。ですから、今年までに七〇〇〇名の教育を急ぐのです。
それで、キリスト教を中心としたこの組織体をつくってアメリカに影響を及ぼそうとします。キリスト教を生かすのです。キリスト教とアメリカが私に従ってくることができる時代に入ってきたので、それが可能です。アメリカのキリスト教を中心として見るときに、カイン・アベル圏、キリスト教がアベルであり、アメリカがカインですから、ダンベリーを出てきたのがレバレンド・ムーンの勝利の締めくくりです。それによって、還故郷をするようになったのです。(一九八八・一〇・三、一和龍仁工場)
5 還故郷の意味
今や統一教会に反対する時代は過ぎ去りました。汝の家の家族が怨讐だと言っていたその怨讐の群れとは、家のなかの家族ではないのです。今では国を越えてあの国境地帯にいる金日成、世界国境地帯にいるソ連以外には私たちの怨讐はいません。約三年過ぎてみなさい。統一教会に反対しては道端でぶん殴られるというのです。「この野郎、何だと?」と、このようなことを聞きながら。
それで今は統一教会の反対時代ですか、歓迎時代ですか? (歓迎時代です)。それで皆さんが故郷へ帰るようになるならば……。昔、お父さんお母さんが、「この野郎め! 家の中を滅ぼし、村を滅ぼし、国を滅ぼして逃げた奴め!」とこのようなことを言ったのは、サタンの代言だということを知らなければなりません。
神様の名前で勝利の盾をもって還故郷する皆さんは、昔と違います。その部落が歓迎しなければならないし、大韓民が歓迎する圏内と世界が歓迎する時代に入ってきたので、皆さんの部落は全部歓迎しなければなりません。では、どこで団結するのですか? 御父母様を慕い、御父母様を愛し、御父母様のみ旨の解怨成事するために歴史をかけて、涙と血と汗を全部ささげて本然の基準に和し、神様の愛の花を咲かせることができる私自身(自分自身)を探し出しますというのですが、どこでその花を咲かせるのですか? これが問題なのです。どこで解くのですか?
先生がアメリカにいるならば、先生を眺めながらその場に行くことはできません。ですから皆さんは、今までは分かりませんでしたが、神様の心情を知り、先生の心情を知らなければなりません。皆さんが故郷の村に入っていって、この心情圏を再度植えつけなければなりません。蕩減ではないのです、今からは。蕩減ではないのです。過去は、蕩減して流れていってしまいました。今からは真のものでもって植えつけなければなりません。植えつけるようになるとき、故郷へ帰る金氏であるならば金氏、朴氏であるならば朴氏という、そのなにがしでもって植えつけてはいけません。
このように見るとき、御父母様の故郷を訪ねていく前に、皆さんの故郷を先に訪ねることのできる恵みを受けているという事実を知らなければなりません。先生は、一段階高い位置に行かなければなりません。南北を統一して故郷へ帰らなければならないのです。皆さんは子女の立場ですから、一段階低いのです。御父母様が歴史時代の個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的蕩減路程を歩みながら、とめどもない涙と血と汗を流してきたのです。そのすべての事実を、御父母様の代わりに背負い、御父母様が北韓の地に入っていって、天の前に勝利と感謝をささげることのできる心情を身代わりして、皆さんの故郷の地を御父母様を身代わりして涙でぬらし、血と汗でぬらさなければならない責任が残っているということを知らなければなりません。
このようになるとき、反対する人は直ちに罰を受けるのです。既成教会は今から行く道がありません。ここからきれいに部落民たちが動員されて、既成教会を追い出すのです。先生の一族を探し求めたように希望を抱き、先生の代わりに愛することによって、先生が過去に愛せなかったことを再現させて、愛したという条件をその地に立てることにより、先生の伝統的根を深く下ろすことができる因縁を皆さんの故郷に広げ、植えつけられるのだというのです。これが今回、還故郷せよという命令だということを知らなければなりません。
(一九八八・六・一、本部教会)
6 「故郷に行け」と語られる
イエス様は何と語りましたか? 預言者は故郷でもてなしを受けられないと語りました。ところが、統一教会の文先生は、皆さんにどこへ行けと語りましたか? 故郷に行って祖先になれと言うのです。そのようなことは歴史にはありませんでした。聖書にそのような教えはありません。故郷でもてなしを受けられないと語ったのですが、今からは故郷でもてなしを受ける時が来たと語るのです。それは聖書にありません。それは、先生のみ言であるとともに、間違いなく天の経綸の中に現れなければならない言葉です。ですから、故郷に行けと言うのです。(一九八八・一〇・二三、一和龍仁工場)
それでは、人類が行かなければならない故郷とはどこにあるのでしょうか? 人類が行かなければならない祖国とはどこなのかというのです。真が宿る故郷、真が宿るその国とはどこなのかというのです。このように見るならば、今日、統一教会が主張し、統一教会のレバレンド・ムーンが皆さんに教えて、行けというその道、その目標以外には発見することができないというのです。絶対できないというのです。これは、理論的な結論だというのです。(一九七九・一・一四、ベルベディア修練所)
今日、イスラエル民族大移動時代を迎えたので、統一教会の信徒たちは、ソウルにいるとか、どこにいるとしても、還故郷しなければなりません。(一九九一・八・二五、本部教会)
先生は今まで、口を閉じてありとあらゆる辱めを受けながらも、耐え忍んできました。エデンの園で神様がアダム、エバを大切に育て、成熟したその位置で、「お前は、私の永遠な家である。お前の家の中が千年万年、全世界に砂のように栄え、空の星のように拡大されるのだ」とそのように願いました。神様が血筋に従って同居することのできる基台でした。その希望の基台がとぎれたのです。それを連結させなければなりません。連結させて戻っていくには、どこへ戻っていけばいいのでしょうか? アダム、エバが堕落して、悪い種を蒔いて、偽りの根が出てきました。偽りの祖先が出発しました。ですから、皆さんを追い詰めて真なる祖先の位置にもっていって植えておかなければなりません。それで還故郷しなければならないというのです。
堕落によって偽りの根が生じました。本然の心情ではありません。本然の心情に反するサタン的根を片づけ、抜いてしまい、これを腐るようにして、腐った根の上に真なる種を植えるのです。本然の故郷の地の上に新しい心情圏、真の父母と真の神様の愛が皆さんの家の中で、金氏であるならば金氏、文氏であるならば文氏、皆さんの村と家から新しく出発しなければならないのです。ですから、還故郷しなければならないということを知らなければなりません。(一九八八・五・一五、本部教会)
皆さんに故郷に帰れと言うのは、先生が儀礼的に来て語る言葉ではないのです。歴史を清算して故郷に帰ることのできる父母という立場の特権を与えてから、このような恵みを相続させて、祝福家庭に故郷へ帰れと命令したということを知らなければなりません。 (一九八八・七・三、ベルベディア修練所)
故郷へ帰らなければなりません。今や統一教会の信徒たちは、絶対に家を出てきてはいけません。今までは、家を出てきたのですね? 今までは、家を出なければなりませんでした。サタン世界から長子権を伝授されなければなりません。今が伝授される時機なのです。今回、私が巡回するのは、皆さんにこれを伝授してあげるためなのです。
皆さんは、真なる愛を伝授されて故郷に帰り、真なる御父母様の伝統を植えつけなければなりません。そうすることによって神様が共になさり、神様のすべての相続権が万民の祝福になり、万福が横的にしみ込むことができる幸いなる韓国の地になるというのです。(一九八八・五・一一、清州教会)
今からは、摂理のみ旨と一致する氏族的メシヤの使命を、心情を中心として皆さんが植えるならば、形成されたものは誰も抜けません。私がみな、差し込んでおいたからです。氏族的メシヤを私が差し込んでおいたので、抜く者がいません。
それゆえにここソウルにいる人たち、統一教会の祝福を受けた人たち、就職であれ何であれ、みなやめてしまって故郷へ帰りなさいというのです。
しかし統一教会の機関にいる人は、私に承諾を受けて、「ここにいます」と言えばいることができるのです。他の所にいる人はみな出てきて、故郷復帰なのです。先生が、自分個人を中心として、自分が出世するために摂理に背反してしたならば、今日、世界に統一教会の基盤が築かれたでしょうか? 同じことです。
お母様は、先生がアメリカを中心として四十カ国を巡るとき、いかばかりくたびれ疲れたでしょうか。けれども、絶対服従して、みなこのようにこの道を歩んできたのです。同じく皆さんも先生の代わりにすべてのものを捨てて故郷に行くというのです。故郷に行きなさい。
では、このソウルが故郷でない人、手を挙げてみなさい。今から皆さんは、故郷の水を飲まなければならないし、故郷で生産する御飯を食べ、そこで住みながら四年間、もてる精誠をみな尽くさなければなりません。
ソウルにある家は、みなどうしますか? それを売って故郷に行くのですが、売って国にささげていくのですか? 同じなのです。今後、皆さんが国に戻ってくるとき、皆さんの一族が、韓国が統一されて統一の園になり、ソウルに上ってくるとき、その家が皆さんの後孫たちの足場になるはずだというのです。それを売っていかなければなりませんか、置いて行かなければなりませんか? はっきりと言いなさい。売って行かなければなりませんか、置いて行かなければなりませんか? (置いて行かなければなりません)。置いて行かなければなりません。
錦を飾って還故郷するとき、先生が世界的勝利の基盤を築いたならば、皆さんは、氏族的勝利の基盤を築くために……。これは、先生が世界的版図を築いたならば、皆さんは何もあってはなりません。モーセ時代と同じなのです。皆さんの一族を何も持たずに訪ねていって、食べさせ生かすという祖先にならなければなりません。(一九八九・二・五、本部教会)
7 還故郷させた理由
世の中は、失郷の世界にあります。失郷民世界版図になったこの人類を、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血筋を経たものを、どのように帰郷させるのですか? これを知っている神様が、メシヤをこの地に送られて、失郷民が帰郷できるようにするのが天の摂理だということを知らなければなりません。帰郷したのちには、宗教であれ何であれ、みな必要ありません。お父さん、お母さんを引き止めて愛し、慕って涙を流すことが礼拝中の礼拝なのであり、すべてのみ旨の完成です。(一九九二・一・二六、本部教会)
統一教会は恐ろしいです。ここに私の欲心をもって軍隊をつくって独裁的に侵略したならば、世界に残るものがどこにありますか。神様を知ったので、打たれて奪ってくる作戦をするのです。
長子権復帰をしました。今からは反対に適用する時が来たというのです。ある家に入っていって、「あなたは、真の父母の歴史を知っていますか? 聞いてください」と言うのです。大胆に。涙を流し、夫婦二人がひざまずいて痛哭させることのできる基盤をもっているのです。それは嘘ではないのです。すべてのことが、みな終わったのです。
皆さんに全部、故郷を天国基地に入籍させなければならない責任があるために、行けと語ったのです。ごちゃごちゃ言わずに行かなければなりません。統一教会の信徒は、ごちゃごちゃ言わずに、みな荷物をまとめるのです。避難する人たちがごちゃごちゃ言っていては、みな死ぬでしょう? ごちゃごちゃ言っていては、みな地獄に行くのです。出エジプトしなさいというのに、エジプトに残っていて、僕の生活をしたのですね? 終わりになって僕の子になるのです。私が語った意味が分かった人、手を挙げてみなさい。
(一九九一・八・二五、本部教会)
! 宗教史に還故郷は初めて
アダム、エバが堕落せず、サタンがいない位置で神様と愛の関係を結ばなければならないのに結べませんでした。先生が歴史始まって以来、初めて条件を立てました。
先生が条件を立てたので今日、私が戻ってきて皆さんに故郷に帰れというのです。御父母様は、勝利の主権をもったので皆さんがカナン復帰をして、エジプト世界から帰ってきて故郷に帰り、永遠に生きることのできる幸福の家庭をつくり、新しい氏族を編成し国に接ぎ木しなければならないというのです。ですから、故郷に帰らなければならないのです。
宗教の歴史世界に、このように故郷に帰れという言葉はありませんでした。故郷から出てこいという、出家という言葉はありましたが。国を捨て、世界を捨てて、みなそうしました。(一九八八・一〇・一五、漢南洞公館)
堕落した世界を救うために、宗教をつくり救援摂理をするということは、新しく戻っていくことです。救援摂理歴史とは、復帰歴史をいうのです。復帰歴史とは何でしょうか? 再創造歴史なのです。再創造歴史ですから、神様の人間創造は、根本的に「ためにする愛」を投入するその世界から始め、その家の愛の女王になり、愛の王になるのです。彼らのために皆さんが祖先になるのです。
今まで宗教世界において還故郷という言葉はありませんでした。国を離れ、家を離れる出家というものはありましたが。先生はこのような原理原則を詳しく教えるのです。故郷に帰って何をするのですか? 新しい社会を建設せよというのです。困難をみな背負いますが、そこには天地が後援するのです。
(一九八八・一〇・五、木浦教会)
9 還故郷とその訓示
還故郷せよとという言葉はどれだけ幸いな言葉ですか、還故郷が? イスラエル民族がカナンの福地に帰っても、それは故郷の地ではないのです。そこには戦わなければならない未来の世界的版図が残っています。世界版図圏を越えて、今や故郷に戻ってきて南北を中心として統一した位置にいるならば、誰も私を追い出すことはできません。万国が入ってきて侍るのであり、万民が崇めることができるそのような位置なのです。神様に侍ることができる驚くべき位置であるにもかかわらず、これを無視する正気でない者はどこへ行くのですか? ですから、きょう教えてあげたことを肝に銘じて、あすの行動を……。今からは横的な行動ではなく、縦的度数を合わせながら行動しなければなりません。この縦的起点に九十度の角度でなければならないし、私がどこかに立つようになるときは、ここで平行線に立った神様の代身者として行動できる者にならずしては、天の国に残っていることはできません。(一九八八・一〇・三、一和龍仁工場)
故郷へ帰ることができなかった人たちが、故郷へ帰ることができるという許しを受けて、その日を自分がもったというときは、いかばかりうれしいですか? 「ああ、明洞に二十階建てのビルを買いましたから、そのために私は故郷であれ何であれ……」と言っていては千年万年後孫に恨みを継承して、その胸に大きな釘を打ち込んでおく悪党の群れになるのです。アダムが過ったことに対して、今まで恨まないこの地の人類の後孫たちがどこにいますか?
ビルディング一つをもって故郷を売り飛ばすのですか? このように見るとき、ああ、逆賊の息子になって千年万年恨みを抱き、行こうとしても行くことができないし、同情票をもらうにももらうことができません。
賢い文先生が来てこのように一生の間苦労し、悪口を言われ、そのように生きました。私のような人は、今後世の中の悲運の歴史が来るとしても、解放の歴史が、光明なる歴史があとに従ってくることを知っていたのでこの道を行くのであって、私一人良い生活をしようというのではありません。統一教会の人々が立派に生活するようにし、さらに民族を立派に生きるようにし、アジアを立派に生きるようにし、人類を立派に生きるようにするためのものです。
それで棍棒で打たれるとしても、足が一本折れても故郷に帰りますか、帰りませんか? (帰ります)。返事をちゃんとしないのですね。今までの返事を聞いていては……。
先生が皆さんの目に血の涙が出るほど苦痛と試練を与えるとするならば、何人ぐらい行動を始めますか? 私は、今やみ旨も成した立場で話すのです。私の行く道において、皆さんを率いていく時は過ぎ去りました。今ではそれこそ、世界舞台で自分の生活力どおりに生きる時が来ました。そのような時になりました。(一九九一・八・二九、国際研修院)
昔、イスラエル民族がカナン復帰するときは、みな、乞食の群れのように入っていったのですね。ぼろきれをまとった乞食の群れが。四十年間の荒野での暮らし向きの内容は、人間らしくなかったのです。食べられないのは毎日のようであり、うずらだけ食べたので汚いのですね。顔を見て、姿を見れば、死ぬほどたまらない状態になった人たちだというのです。
カナン七族が生きるカナンに入っていってみると、そこには牛がおり、馬がいました。立派に生活している家を見るのでどのようなことが起こったかといえば、「ああ、あの人たちと結婚したら良い。良いものを食べたい」とそう思ったのです。気を奪われたというのです。気を奪われたのです。反対を受けるとき、気を奪われたというのです。
しかし、皆さんが今から還故郷するときは、気を奪われてはいけません。それはどういうことかといえば、カナン七族を屈伏させて自由に結束させることのできる、自由な環境を開拓して、皆さんにメシヤとして主人の振る舞いをせよというのですが、この主人を、できませんか? これができないならば、首を打つのです。まさしくこれが退廃分子なのです。不純分子だというのです。
就職するために統一教会に入ってきたのではないでしょう? 就職するために統一教会に入ってきた皆さんではないではありませんか、全部。日本も同じなのです。(一九八九・二・五、漢南洞公館)
私が皆さんを激しくこき使うではありませんか? 私がしたことを皆さんにさせるではありませんか? させるとき、「お前たち、するのか、しないのか」と言って誓いをさせるではありませんか? 誓ったならば実践しなければならないでしょう? 今回も氏族的メシヤになりますと、みな誓ったでしょう? この者たち、私はそれ以上しました。氏族的メシヤのみならず、国家的、世界的メシヤの責任を今、果たしているのです。皆さんは、小メシヤにならなければなりません。虎の子が猫の子になってよいですか? 私が世界的メシヤであるならば、皆さんは国家的メシヤになりますと言ってこそ希望があるのであって、「ああ、氏族的メシヤもできない」と言ってはいけません。(一九八九・一・八、本部教会)