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1 本郷の意味
皆さんには、故郷というものが印象的であるはずです。誰にとっても故郷はありますが、大概その故郷で住んでいる人たちは、故郷が美しく、良いということをよく知りません。本当の故郷の味は、故郷を離れてみてこそ感ずることができます。本郷というものも本郷の地を離れてみてこそ、その味を知ることができるのです。
私たちが生まれて住んでいる故郷は、皆さんがよく知っています。けれども、人間が探し求めていかなければならない本郷の地は、まだ現れませんでした。
元来、私たちの人間始祖が堕落しなかったならば、その本郷はどこでしょうか? アダムとエバが住んでいたエデンの園であり、その村なのです。その山河であることに間違いありません。今日、堕落した父母の血統を受けて生まれた人間は、「本郷」といえば、自分たちが生まれた所を思いますが、今日、人類が追求し、慕っている理想的な本郷というものはあまりにもむなしいものです。
今日、私たち統一教会が探し求めていく最高の目的地はどこでしょうか? 私たちは、失ってしまった本郷を探し求めていかなければなりません。その本郷には、御父母様がおられ、兄弟がおり、親戚がいます。彼らが悲しみの中から私たちを迎えてくれるのではなくして、永遠の喜びと幸福の中から私たちを迎えてくれることのできる所、そして、その喜びが一時的な喜びとして終わるのではなくして、永遠に継続され得るその本然の所を私たちは探し求めていかなければなりません。
本郷という所は、住みたいというそのような所です。家を離れてみるとよく分かるように、行きたいし、見たいし、住みたい、そのような所です。私たちの心が行きたいし、心と共に体が行きたいそのような所です。ところが今日、私たち人間は、真実なる意味でそのような本郷に行くことができるのでしょうか? 行くことができません。堕落したので私たちは、心とは相いれない距離でいつも間隔をおき、互いに押し合い、押され合って争う路程を経ていっています。
心が慕うのと同時に体も慕う、永遠に安息することができ、幸福の基台であると誇ることができる本郷を私たちは探し求めていかなければなりません。ですから、今まで歴史過程において数多くの人たちがこのような本郷を慕い、追求し、欽慕しては死んでいきました。また、多くの宗教人や哲人も、この本郷の地を探し求めるために今まで苦労しているということを私たちは知らなければなりません。それゆえに、本郷の地が必ず現れなければならないのです。
神様は、本郷を慕う私たち宗教人を率いて、その本郷の地へ引導なさるために今まで闘争してこられました。そのような神様は、必ずそのような人を本郷の地へと引導なさるに違いありません。ですから皆さんは、この地で準備をし、神様が、「お前が本郷の地を慕うように私もお前を慕わしく思った」と言うことができる実質的な内容をもって、あの世に行かなければならないということを知らなければなりません。(一九六九・五・一一、前本部教会)
2 本郷の家
私たちは本郷を、本郷の家をなぜ慕わしく思うのでしょうか? 本郷といえば必ず家を思うのですが、家をなぜ好むのでしょうか? その家は何の家なのでしょうか? 箱のような小さい家、入ってみたとき、それがその国において十等以下の家であるとしても、その家は懐かしいのです。ねじれた箱のような家で愛するあなたとささやくことは、豪華な宮殿の宝座で愛をささやくことに対比することができないというのです。
それで私の本郷の家がどこなのかというとき、どこだと言わなければなりませんか? 私の本郷の家、その本郷の家はどこなのですか? 私たちが語るに、統一教会の信徒たちは、本郷の家といえば、その家は箱のような小さい家、草ぶき屋根の家、何の瓦ぶきの家と、このようないろいろの家を語りますが、そのような家は必要ありません。愛の家をいうのです。
私の本郷の家とはどこですか? それは、家をいうのではないのです。私の本郷の家は、お母さんなのです。お母さんです。本来、本郷の家がお母さんです。お母さんの胎内から出てきたでしょう? 私たち統一教会の信徒たちは、そのことを考えなければなりません。これを考えてこそお母さんが貴いということが分かります。故郷の家だけ、故郷の地だけ慕わしく思うことを知っていますが、それは相対的な地であって、本質的故郷の地は、主体的本郷の地は、お母さんの体なのです。
皆さん、本郷の地がどこなのかというとき、私に言わせれば、平安北道定州のあの上思里なのです。それ、名前は良いです。上思里という所なのです。「それで、そこに行けば何がありますか?」と聞くようになるならば、何があるとは何ですか? あるもの、みなあるのですね。それでも、本郷の地は、そこではないというのです。父母が私の本郷の、本質的本郷の地であるというのです。お母さんの深いおなかの中が本郷の地だというのです。深いお母さんの愛が、根本たる所が、本郷の地だというのです。
さらに進んで本郷の家、その家はどこにあるのでしょうか? 父母が私の家なのです。その家の兄弟たちが私の家なのです。それが愛の家だというのです。その町内の隣人が愛の家なのであり、この国が愛の私の家であり、この世界が愛の私の家であり、この宇宙が愛の私の家だというのです。愛を中心として見るとき、宇宙の家だというのです。宇宙。このごろは、宇宙村だといいます。宇宙村というよりも宇宙家といわなければならないのです。世界村ではないのです。世界の家なのです。世界家。宇宙は、私の家だというのです。(一九八六・五・二五、本部教会)
3 本郷へ帰ろう
本郷へ帰らなければなりません。皆さんが帰ろうとするならば、どのように帰らなければならないのでしょうか? 失郷世界、失ってしまった故郷を探し求めていこうとしますから、故郷がどのような所かを知らなければならないのです。故郷の何がどうなのでしょうか? 故郷の愛がどうなのかというのです。父母の愛が慕わしくて帰っていくのです。父母が慕わしくて帰っていくのです。兄弟が慕わしくて帰っていくのです。そこは、自分の妻子が安息でき、夫婦が安息できる所です。
さあ、今から帰っていかなければならないのですが、帰っていこうとするならばどのように帰らなければならないのでしょうか? 私たちは、エデンの園で何を失ったのかといえば、父母を失い、その次には子女を失ってしまいました。今は、愛を中心として語るのです。神様を失い、父母を失い、その次には、兄弟を失ってしまいました。長子たるカインは、アベルを失ってしまいました。兄は、愛する弟を失ってしまい、弟は、愛する兄を失ってしまいました。これが問題です。
本然の愛に反対する、そのような立場に立った人たちを引っ張り回すものは何ですか? サタンです、サタン。堕落することによって地獄が生じたのです。それによって家庭を失ってしまい、その次には、氏族を失ってしまい、民族を失ってしまい、国家を失ってしまい、世界を失ってしまったというのです。
それでは今日、復帰路程において一番の問題は何でしょうか? 世界を探し求めるためには、世界救援に先立って国家救援がなければなりません。世界が出てこようとするならば、国家過程を経なければならないし、国家過程に先立って民族過程がなければなりません。民族がなくしては国家が出てこないからです。
民族というものは、数多くの氏族を連合させたものです。数百、数千の姓が入っているのです。ですから、民族に先立って氏族を救援しなければなりません。氏族が天側に立っていなければなりません。氏族に先立って家庭が神側に立たなければならず、家庭に先立って個人が神側に立たなければならないのです。
ところで問題は何かといえば、皆さん個人が、家庭に先立って、神側に完全に立っているのかということです。皆さんが職場をもって働いているということは、サタン世界の混濁とした水の中で泳いでいることだということを知らなければなりません。これをいつか水の根源に行って洗わずしては天の国には行けません。ですから、世界を探し求めようとするならば、国を探し求めなければなりません。
還故郷しなければならないのですが、本郷の地へ帰っていくためには、堕落した世界がありますから、これを収拾しておかずしては入っていけません。(一九八六・九・二八、本部教会)